はっぴいえんど、ユーミン、サザン……萩原健太に訊く、70年代に“偉大な才能”が多数登場した背景

 音楽評論家・萩原健太氏が、1970年代の日本のポップミュージックを15枚の歴史的名盤とともに振り返った書籍『70年代シティ・ポップ・クロニクル』を去る8月に刊行した。同著で萩原氏は、1971年から75年までを“日本のポップ史上における濃密な5年間”と位置づけ、はっぴいえんどや荒井由実、吉田美奈子といった若き音楽家たちがいかにして名盤を生み出していったかを、自身の音楽体験を交えながら綴っている。なぜこの時代に卓越したセンスを持つ音楽家がこぞって登場したのだろうか。リアルサウンドではその理由を掘り下げるべく萩原氏にインタビューを行い、同時代の洋楽との関わりを軸に、現在の音楽シーンへの影響も含めて語ってもらった。

「世代によって濃密な5年間は違う時間軸で存在している」

――『70年代シティ・ポップ・クロニクル』と、書名には“シティ・ポップ”という言葉が入っていますが、文中には出てきません。タイトルは編集を担当されたele-kingの野田努さんや三田格さんが、本書の趣旨をわかりやすく伝えるために付けたものなのでしょうか。

萩原:そうです(笑)。僕らにとって“シティ・ポップ”というのは、70年代より後から生まれた言葉であって。とは言え、松本隆さんはすでにはっぴいえんどのアルバムで「風街」という言葉を使っているし(1971年『風街ろまん』)、事務所の名前が「風都市」ということも含め、“都市音楽”という言葉自体は当時からキーワードとしてよく使われていました。この時は「(東京という)都市として機能している場所で聴かれるための音楽」というイメージで、今のような形で使われ始めたのは、80年代に入ってからじゃないかと。

――80年代というと、どのあたりでしょうか?

萩原:例えば、鈴木英人さんの描く『FM STATION』の表紙や、山下達郎さんの『FOR YOU』(82年)、大瀧詠一さんの『EACH TIME』(84年)に書かれている街並みといいますか。そういうものから受け取った都市のイメージにあこがれを抱きながら、地元の風景を頭のなかで再構築して、少しいいものにする……という。汚い6畳間に『A LONG VACATION』(81年/大滝詠一)のスダレみたいなものをかけていた人、多かったじゃないですか(笑)。そういう、今考えると少し気恥ずかしいような、ある種のリゾート感を伴った“都市幻想”に彩られていたころの音楽という感じはしますね。ただ、70年代から「都市の文化は、ドメスティックでアーシーな文化に比べて脆弱だ」という評価も少なからずありました。

――実際、萩原さんの周囲でもそうした傾向があったことは同著にも記されていますね。

萩原:アーシーでカッコいい関西ブルースのブームもあったし、そのなかで――この本で挙げた例で言うと、シュガー・ベイブのように洗練されたコード進行と、一人称を曖昧にした夢の世界のような歌詞を提示することは、すごく怖いことだったと思う。だけど、自分たちはそういうものを作りたい。それを「都市音楽」と言う時には、ちょっとした覚悟があった感じがします。そうしてシーンが切り拓かれて、さらに達郎さんや大瀧さんが1979年~81年ごろに大ヒットして、ある意味で“結実”した。その上にわりと楽に乗っかって生まれたものをシティ・ポップと呼んでいた、というイメージもあるんです(笑)。

――今回の本で取り上げているのは、まさに新しい音楽が実を結ぶまでの過程ですね。萩原さんは特に1971~75年を“特別な時間”として取り上げています。

萩原:もちろん、世代によって濃密な5年間は違う時間軸で存在していると思います。ただ、この職業を続けてきて、日本の音楽シーンというものを俯瞰して見ることができるようになった現在でも、あの5年間はとてつもなく濃かった気がする。その時代に高校~大学の時期を過ごせたのは幸運でしたね。基本的に僕は洋楽ファンで、それと同列に聴ける日本の音楽を探していました。今のように来日アーティストも多くなかったし、映像も少なかったから、場を共有して一つの音楽を分かち合いたいという気持ちも強かったですね。

――同時期の洋楽としてはヴァン・ダイク・パークスやトム・ウェイツの名前を挙げられていますが、当時リスナーとしてはどんなものを聴いていましたか。

萩原:ビーチ・ボーイズが一番好きで、ほかにはジェイムズ・テイラーやニール・ヤング、ジャクソン・ブラウン、ローラ・ニーロなどを聴いていました。僕にとってビーチ・ボーイズと並ぶくらい影響が大きかったのは、この時期だったら(ハリー・)ニルソン。後のアルバムで“心の底ではロックなんて嫌いだ”と歌っていたりもして、単なるフォーマットとしてありがちなロックではなく、“狭間”のようなところでいろいろな音楽を作っている人たちを追いかけていました。

――日本における洋楽では、どちらかというとレッド・ツェッペリンなど、ブリティッシュ系のハードロックが人気だった時代ですね。

萩原:高校時代だと、だいたい一学年に5人は“リッチー・ブラックモア”がいました(笑)。ハードロックやブルースロックが人気で、学園祭は激しいバンドばかり。音楽好きでも、ポップミュージックの範疇でアコースティックギターを弾いているような人たちはあまりいませんでした。だから、基本は自宅に帰って一人でレコードを聴き入る感じ。ビーチ・ボーイズを広めようと頑張ってみたものの、周りの反応は鈍かったですね。

――その状況が変わったのは大学時代だそうですね。

萩原:大学になると、いろいろな地域から学生が集まってくるので、趣味の合うやつが出てきて、違う広がり方をしました。僕は1974年に大学に入ったのですが、時期もよかったですね。翌75年に前出のシュガー・ベイブがデビューしたし、ティン・パン・アレー(細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆で結成されたユニット)の人たちは、雲の上のような存在として、すでに活躍していた。そのメンバーがだいたい寡黙だったから、自分もアマチュアバンドでちょっと斜に構えて演奏したり(笑)。

――名前の挙がるアーティストを見ると、1945年から50年くらいまでに生まれた方が多いですね。なぜこの世代から、一挙に若く才能あるミュージシャンが出てきたとお考えですか。

萩原:この世代でようやく“どういう風に作っているか”がわかったと思うんです。50年代にロックが日本に上陸しましたが、グルーヴや魅力の本質というものは捉えきれていなかった。実際、当時はハワイアンやカントリーも含めて、外国の音楽がすべて「ジャズ」と言われていたようなところがありましたから。そんな文脈でロックンロールに接していたから、“こなしきれない”ような感覚があったと思うんです。GSなんかもそうですね。多くの人がビートルズを目指したけれど、グルーヴも機材のこともわかっていなかった。当時の日本にはエレキギターの弦もレギュラーゲージしかなくて、ベンチャーズをコピーしようとしても「なんであんな簡単にチョーキングができるんだ!」と理解できなかったようですから。そういう世代と、子どものころからビートルズに接していた人たちでは、音楽の捉え方が決定的に違う。8ビートにどうノッていいのか、という理解が進んだ世代がようやく花開くのが、69~70年ごろだったと思います。

――なるほど。著書では、その代表格としてはっぴいえんどを挙げられています。

萩原:彼らはこの時期にようやく日本で始まった多重録音を使い、1973年にロサンゼルスでレコーディングを行って、大瀧さんは現地のエンジニアとずいぶん話し込んだようです。そこでさまざまなノウハウが日本に持ち帰られて、レコーディング技術が大きく飛躍しました。きっと、この世代の人たちは楽しくて仕方がなかったでしょうね。スタジオミュージシャンについても理解が広がり、「チャック・レイニーがスゴい!」みたいな話にもなって。細野さんのベースはまさにレイニーのスタイルでしたね。彼らが吸収したものを即座にリスナーに提示し、リスナーが育っていく時代でもありました。マーケット自体は大きくありませんでしたが、ミュージシャンとリスナーが近く、シャープなやり取りをしていた印象です。

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