姫乃たま、大谷能生に“批評の原理”を聞く「書き言葉は現実と距離を取ることができる」

姫乃たまが大谷能生に聞く“批評”する理由

 「音楽のプロフェッショナルに聞く」第3回目は、音楽家であり批評家の大谷能生さんを講師にお招きして、音楽批評について伺っていきます。

 批評と言うと辛口な批判のことだと思われたり、個人的な感想になっていたり、もはやただの悪口だったり……。

 批評ってなんだろう。どうして、どうやって、批評を書くのだろう。

 音楽を取り巻く複雑な環境を批評で縦断してきた大谷能生さんに、言語の成り立ちに立ち返って、基礎から批評について教えてもらいます。(姫乃たま)

批評は書き言葉でのみできる――書き言葉と喋り言葉の違い

姫乃たま(以下、姫乃):まず全体的な話からですが、音楽批評ってなんでしょう?

大谷能生(以下、大谷):えーと、とりあえず「音楽」と「批評」の二つに分けてから考えたいんですが、僕の場合、「批評」っていうのは書き言葉でのみできることっていうことを考えてます。話し言葉、喋ることではできないことっていうか。

姫乃:批評は話し合えないってことですか?

大谷:そうですね。喋る行為は、目の前の対象に向かってやるわけだから、アクションであり、出来事ですよね。書き言葉はそうじゃないんですよ。子供はほっといても周囲の声を聞いて喋れるようになるけど、文字は教育されないと書けるようにはならない。喋り言葉には間違いがなくて、「にゃー」とか言ってもその伝えたいことが伝わる人には伝わるけど、書き言葉っていうのは体系として厳然と我々の外側に広がっているものなんですよ。その体系のなかに自分の個人的な声をあらためて埋め込むというか、再発見、再構築してゆく作業が文章を書くってことになります。

姫乃:はっ、当たり前のことですが、改めて考えたことなかったです。

大谷:喋り言葉でできることと、書き言葉でできることの意味っていうのは、多分、全然違うと僕は思ってます。

姫乃:では、また基本的な話なのですが、批評ってどうやって書くんでしょう。

大谷:書き言葉は目の前に誰もいないまま書きますよね。相手がいないまま無限に語れるのが書き言葉です。書き言葉、文字は、誰が言ってるのかわからないし、誰が読むかもわからないところに存在するんです。

姫乃:あれっ、なんだか怖くなってきました。

大谷:原理的な話ですよ。怖いですか(笑)。

姫乃:ずっとそばにあった世界に気づいていなかった恐怖があります。

大谷:歩けても、そのままではルールに従わなくてはならない、たとえば野球とかができないのと同じで、言葉を喋れても、それを文字化できるかはまた別の話じゃないですか。同じ「言葉」でも、書く行為は一回社会の側に適応するわけです。文字っていうのは我々の外側にあるんですよ。子供は読み書きを習うことで、自分が喋っていたのはこう書くのかって、言葉を認識し直させられるんです。言葉は内にも外にもあるけど、書き言葉は自分の外側にあるんですよ。

姫乃:文章を書くって個人的なことなので、書き言葉も自分の中にある印象でした。

大谷:逆だね。逆っていうか、書き言葉は、出来事でもないし、事件でもないし、現在でもないので、それを読んだり書いたりしてる時、我々はそういう非時間のところに半分くらい身を置いているわけです。新聞って誰の声で読んでるかわからないよね? 自分の声で読んでる気がするけど、書いたのは自分じゃないし、そもそも誰が書いてるかわからないじゃないですか。そういう感じで、具体的な運動である「声」から離れて、自立している言葉の体系っていうのがあるんですよ。だから僕たちは同じ文字が読めるんです。そして自分から離れないと、書き言葉は書けない。

姫乃:ふむふむ! うーん、それでもまだ批評って口頭でもできるような気がしてしまうのですが……喋り言葉ではできないんですか?

大谷:いや、感想を伝えるなら面と向かって話すのが一番早いですよ。言葉の中ではっきり個人的なものが現われやすいのは、声とか歌とか喋りです。でも声っていうのは、言葉が持ってる物質的というか、出来事的な側面で、書き言葉っていうのはそうじゃない能力も持っているわけです。そういった書き言葉が持っている能力を文章にしたものを、僕は批評だと思っているんです。

姫乃:書き言葉が持っている働き?

大谷:現実から一旦離れるとか。書き言葉っていう、我々が生まれる前からあって、恐らく死んだ後もあるであろう読み書きの体系に入って、それに従うわけ。書き言葉は我々がいなくてもあるわけですから。差異の体系というか。

姫乃:さい……賽の河原ですか?

大谷:いや、漢字が違う(笑)。書き言葉の体系に入るっていうのは、喋り言葉を自分から切り離すから、言葉が2、3回死ぬみたいな感じで。

姫乃:えっ、賽の河原だからですよね?

大谷:えっ!

姫乃:えっ?

大谷:子供にさ、最初に文章を教える時、「先生、あのね」から書き出させるでしょ。あれは喋り言葉をどうにかして社会の側(書き言葉)にねじ込んでるのよ。それをみんなが読むので、社会の中に個人的な出来事が出て行って恥ずかしいと(笑)、最初に文章を書いて読まれた時にすごく恥ずかしいわけ。録音された自分の声を聴いたみたいな感じで。自分の個人的な体験が、外側のシステムに回収されちゃって、あたらしくそれまでなかった自意識が生れるみたいな。でも自分の個人的な経験が社会に晒されてイイじゃんってなる子もいて、だから大人になってから個人的な音楽経験を文章にするという人も出てくるんじゃないでしょうか。

姫乃:大谷さんの批評は個人的な経験とは関係ないんですか?

大谷:僕は、まあ、書き言葉の社会に入って、とにかく自分や出来事から離れて、どこに向かって、どの場所で書いているのかもわからない、誰が読むかわからない文章を書きたいんです。僕が言ってる批評っていうのは、時間から離れて、書き言葉の体系に入っていくことなんだよね。書いてる段階では誰にも読まれないと思ってる。ということは、誰にも読まれていると思っていることと同じなんですけど。

姫乃:誰が読むのかわからないまま文章を書くって怖いですね。

大谷:それを書くのは、なんていうか、すでにある体系に合わせるわけですから、どこにもない社会の側というか、人間ではどうしようもない側の行為なんで、でも、多くの人は読む相手=聞く相手で、自分が「言ってる」言葉だって思って批評を書くなら、それは現実的で、ちょっと怖いですよね。個人の声でのやり取りを、公共の場所でやるわけだから。でも、音楽批評をやる人は個人から離れずに、「俺の書いてることは個人的な体験であって社会的なものじゃない」っていう、この文字は俺の声だ!って文章が炸裂してるのをよく読むことになるんですけど。

姫乃:はー、なるほど! あれっ、でもそもそも音楽って個人的なことじゃないですか?

大谷:そう、音楽の経験っていうのは個人的なものだから、批評すること自体が矛盾してるとも言える。でも音楽について喋ることはいくらでもできるけど、そもそも字を書けるようになるっていう経験が社会の側のものだから、その矛盾を最大限に引き受けて書かれた文章の方が面白いと思ってます。字を書くっていうのは、そもそも教育されて生まれることで、なんで、初期衝動とか、それこそダンスとか唄とか、個人の状態のままで楽しいものとは異なっている。だから、字を書きながらも、「社会にいるのはパンクじゃねえ! ロックンロール!」みたいに引き裂かれる状態になって、いろんな文章が生まれるんですね。

姫乃:音楽誌に載っている文章が異様な熱気を帯びてるのはそういうことだったのか……!

大谷:そういうことかはわからないですが、そういう人が多いと僕は思ってます。

姫乃:大谷さんはどうしてそういう考え方に行き着いたんですか?

大谷:言葉でできることの中でも、声でできることは声でやる、字でできることは字でやる。とりあえず最初はそれを混ぜない。一緒にしないで、思いっきり距離を離した方がそれぞれの言葉の力が強くなると思うんです。で、どっちもそれぞれにやると。

姫乃:ずーっとざっくりした基礎の話で恥ずかしいのですが、大谷さんはどうして批評を書くんですか?

大谷:現実と距離を取りたいんだよね。飯食ったり寝たり音楽は現実でやるから、言葉を書くことによって、自分の外側にある、時間から外れたところになるべく長くいたいんですよ。そこを一回通して、個人的なことを文章に定着させるっていう矛盾した行為が好き。でも何を思って批評を書くかはそれぞれなので、書き言葉はそういう風にも使えますよってだけです。僕は特殊なんじゃないかな。

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