姫乃たまが原みどりに教わった“歌うこと”の本質 福岡での3日間を振り返る

姫乃たま、原みどりに“歌うこと”を教わる

 その日、私は原みどりさんの歌声を車の中で聴きました。大学生活にも慣れてきて、初めて書籍の制作に携わっていた頃です。『インディーズ・アイドル名鑑』(東京キララ社)は、地下アイドルの女の子を200名以上も掲載する写真集で、週末はほとんど撮影の立ち会いと、女の子たちの送迎に費やしていました。その送迎車の中で編集さんが、原さんの新しい音源を聴かせてくれたのです。重たいほど優しくて、優しいほど重たい歌声でした。その声は私が初めて聴いた原さんの、「バイ・バイ・ブラック・ベイビー(黒猫中也に捧ぐ)」(1996年)や、SPANK HAPPYの「悲しむ物体」(1995年)と同じでしたが、全く違うもののようにも聞こえました。

 編集さんによると、近ごろの原さんは「亡くなったお父様の散骨をする旅の末に、彼の生まれ故郷である福岡に偶然辿り着いて、お寺に住みながらそこで録音などをしている」そうです。私はそのように生きている方の話を初めて聞きましたが、カーステレオから流れてくる原さんの声は、なるほどたしかにそうやって生活をしている人の声としか言いようがありませんでした。

 編集さんはぽつりと、「いつか福岡まで原さんに歌を習いに行くのが夢なんだよね」と言いました。そんな素敵なことがあるのかと思いながら、原さんの歌声を聞くために、目的地まで少し遠回りをしてもらいました。そして、原さんに歌を習いに行くということは、何年もかけて私の中に私の夢として定着していったのです。

 実際に原さんが歌っているところを見たのは、それからさらに二年後のことで、場所は吉祥寺のMANDA-LA2でした。原さん達のかけがえのない音楽仲間を法要するための集いは「四十九日抱擁イベント」と題されて、様々な人たちが、それぞれの傷を思い出に包んで穏やかに笑っていました。初めて目にした原さんは黒の着物姿で、しきりに赤ワインを飲み、歌うように喋って、喋るように歌っていました。私はその場にも、原さんの存在にも緊張していて、着物で歌っても苦しくないのかしらなどと関係のないことを考えるほど気もそぞろでした。

 帰り際、友人が原さんに、「彼女、ライブで『悲しむ物体』をカバーしているんですよ」と私を紹介してくれたので、恥ずかしいやら決まりが悪いやらで、顔の前で手をぱたぱた振ったりなどしていたら、原さんは、「あれはね、マイクを口に突っ込んで歌えばいいのよ」と笑って仰いました。

 その後にも不思議なことがありました。次に下北沢の440で見た原さんは、足がまるで地面に根っこを生やしているようだったのです。ぴったりくっついているというよりは、もうほとんどめり込んでいるんじゃないかというくらい、地面にずっしりと立ったままピアノを弾いていて、それでいて歌声は天に突き抜けて昇っていくようでした。

 原さんは曲間に、下北沢に住んでいた頃の話をしていました。それはちょうど私が下北沢に生まれた頃の話でした。なんだか縁って、不思議です。

 ところで、音痴は(本来は脳ですが)心の病気だと思っています。私はもともと音程を取るのがあまり得意ではないのですが、特にここ数年は羞恥心によって、喉や内臓が細くなるような感じがしていて声量が小さくなっていました。性格的にもカラオケなんかは苦手で、人前で歌うのはもっと恥ずかしいように感じてしまいます。そんな状態で8年もの間、年に平均して100本程度のイベントに出演しているのですが(最近は司会や喋る仕事が増えていて、歌う割合は減っていました)、羞恥心は年々肥大していくようでした。

 それに加えて憂鬱な時間が長くあって、歌うこと(に限らずですが)を楽しいと思える瞬間をどんどん失っていました。歌うことが仕事なんて、信じられないような恵まれた生活をしているのに、それを喜べない自分がずっとひどい人間のような気がしていました。

 具体的なきっかけは忘れてしまいましたが、MANDA-LA2での夜からさらに三年が経った先日、私はどんな隅っこに立っていても人からぶつかられるような地下鉄の駅で、ふと思い立ってメールを送りました。

「原みどり様 お世話になります、姫乃たまと申します。高校生の時に『Worst 12 In Heaven』を初めて聴いて、いつか原みどりさんに歌を習うのが夢でした。」

 こうして私は、福岡県の久留米市で三日間、原みどりさんから歌を教えてもらえることになったのです。

 初日の久留米市は雨でした。傘をさした原さんが、手を振ってぴょこぴょこと迎えてくれます。広大な敷地の中にあるスタジオは、歌のマンツーマンレッスンというより、集団でのダンスや演劇の稽古をするような広さで、黒々としたグランドピアノですらぽつんとして見えました。私はさらにぽつんと猫背の正座になって小さく小さく原さんの前に座り、音程を取るのが苦手なこと、それから音痴は心の病気だと思うこと(原さんは優しく微笑みながら、まあそんな考えもあるのかしら、という表情でやや首を傾げていらした)を話しました。

 なにはともあれ、まずは呼吸をしてみましょうということで、最初に原さんは“たんでん”に空気を吸うように教えてくれました。たんでん。何か方言だろうかと思って何も聞かずに、言われたとおりに体を意識しながら呼吸をしてみると、足の裏が地面に吸い付くような感覚があって、しかもこれまでやっていた腹式呼吸よりもずっと下のほうに空気が入るようでした。この呼吸法で原さんは、地面に根っこが生えたようにして歌っていたのです。

 改めて聞いた丹田(たんでん)とは、「おへそから指三本分ほど下、恥骨より上だけど、人それぞれ」のところにあるそうです。その夜、博多の居酒屋で隣に座っていた人が、「突かれると死ぬところでしょ?」と言っていたので(真偽の程は不明過ぎますが)、なんだかすごく重要らしいことがわかりました。

 帰り道に私と原さんは一杯ずつ赤ワインを飲みました。この日、音程に関して、ひとつひとつの音は大丈夫、下がっていく音も大丈夫で、上がっていく音を取るのが苦手であることを探り当ててもらいました。でも、丹田(と言ってもすぐには習得できないので、その辺り)に集中して声を出すと、高い音にもしっかりと声が乗っかるようでした。原さんは、お医者さんみたいです。

 二日目、着物姿でラジカセを持って現われた原さんは、広いスタジオに入るとすぐにカーテンと窓を開けました。思わず、声を出すのにこんなに窓を開けて大丈夫か聞くと、原さんは、「東京は声を出せる場所が少ないよね」と思い出したように言いました。私も東京にいる時は、いつどこにいても、誰かに自分の声を聞かれているようで落ち着かないことを思い出します。もう一度目をやった窓の外には、山が見えました。

 原さんは一通り呼吸の復習をすると、ラジカセと一緒に、「よかったら聴いて待っててね」とCDやカセットを置いて稽古へ出かけていきました。てっきり、ほかの生徒さんのレッスンかと思っていたのですが、原さん自身が習っているお茶の稽古があったのです。原さんの歌のお師匠さんは、福岡に来てから出会った詩吟の先生で、お茶の稽古も詩吟の大会に出るための一環だと言います。丹田を使う呼吸法は、帯で締められているところよりも下の部分に集中するので、着物を着ることによって、より丹田を意識できるそうです。

 原さんが置いていったのは、1998年1月29日に南青山MANDALAで行なわれたSPANK HAPPYの公演『恋素の発見』のライブ音源でした。日付とセットリストが手描きされたCDRには、「悲しむ物体」の演奏も収録されています。大友良英さんによるターンテーブルとギターのノイズが印象的で、初めて会った日の原さんが、「あれはね、マイクを口に突っ込んで歌えばいいのよ」と話していた意味がわかりました。この演奏の中では、歌がほとんど聞こえなかったのです。音源を聴いて呆然としているところへ、お茶菓子を持って帰ってきた原さんは、あら懐かしいと笑ってから、この時の演奏について、「轟音なのにとっても静かだった」と話していました。

 それから原さんのピアノに合わせて、大きな口をあけて、脳内に響くくらい大きい声を出しました。私はなんだかとっても単純に、こんなに大きい声を出していいんだと、あっけにとられていました。随分と長い間、出力することよりも、自分を抑制することばかり考えて生きていたような気がします。

 原さんが「悲しむ物体」をどうやって歌っていたのかも教えてもらいました。原さんは私が歌っている間も、精一杯にピアノを弾いて、時々一緒に歌ってくれました。少しだけ、この曲に関する思い出も教えてくれました。

 別れ際、「明日はもっと声を出せる場所に行きましょう」と原さんは帰っていました。歩きやすい靴を履いてきてね、と。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「アーティスト分析」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる