荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史

 ヒップホップにとって重要な要素であるダンスとスタイル(ファッション)はどのように位置づけられてきたか?

 例えば、“日本語ロック論争”。日本における最初のヒップホップ専門のレーベル<BPM>を設立し、自らもロック・ミュージシャンとしてではなく、プレジデントBPMというオルター・エゴでラッパーとして活動した近田春夫によると、日本のロックの歴史を振り返ったときに必ず触れなければならない日本語ロック論争について、実際は“ダンス・ミュージックかそうでないか”をめぐっての対立だったという。

 1970年、日本のロックの歴史における伝説的な、はっぴいえんどの1stアルバムのリリースの数カ月前、メンバーの1人、松本隆は、1700字のテキスト「現代のロックは放浪よりうまれる」を雑誌『ミュージック・ライフ』8月号に寄稿した。

 彼は、映画『イージーライダー』や『真夜中のカーボーイ』に巨大に映し出された“ぼくたちと同時代を生きる、アメリカの若者たちの開拓者魂”について書き出したのち、当時のアメリカでのカントリー・ソングの復活、ブルースの流行、ロックン・ロールの再登場を、以下のように定義した。

「なるほど、商品社会の苦吟に規定されているにしても、一方では、その瓦礫の中を吹き抜ける砂塵のように、奇妙に新鮮な、アメリカ自身の胎内回帰」

 そして次に、おそらくこのテキストでもっとも有名な部分が姿を現わしてくる。

「アメリカの、このランボーまがいの倦怠と逃走を、これ以上確認する必要があるだろうか? 僕はあると思う。ロックが、同時代的な息吹であろうとする限りは、アメリカの没落と日本の堕落が、ぼくたちの出発点であるとともに、倒錯した終着点、はっぴい=えんどである限りは」

 はっぴいえんど、歴史を転換させたという1stアルバムのリリース直前、これは松本隆によるステートメントに他ならない。

 “happy ending”ーー松本のテキストで名前を並べられているようなアメリカン・ニューシネマ群の到来のとき、悪漢以外の登場人物がみんな幸せになってプロットが終わることはもう稀であった。それをふまえながら、あえて日本語のひらがなで表すこと。それはいくつかある放浪のうち、彼が必要としたのは「安物絵葉書の挿画のような、旅のもつ俗悪な枠組み」を「活人画として、土地の精霊の中に魔術的に喚起」する「消滅した幻想の郷土(=東京)を発見する仮装した時代錯誤」だと導かれる。

 こうして松本が「細野君と共に、ロックという放浪を再確認しようと考えた」とき、「富士山や松原や九十九島が過去に逆流するのは、ぼくにとってのそれらがあくまで銭湯の壁に原色で描かれた大きな絵」で、彼はもう見えにくくなった戦後のブラックマーケットの姿を「新宿のゴールデン街や、品川の横町」に見ようとし、「時の螺旋階段を駆け上り、袋小路の影絵芝居の中に、裏ぶれた駄菓子屋を見い出す時、ぼくらの幻の都市への進撃を開始」するという。

 1968年、バーンズというバンドで、のちのはっぴいえんどの細野晴臣と松本隆はThem の「Gloria」、Sam & Dave「Hold On, I’m Coming」といった曲をディスコ/クラブでプレイしていた。また、小坂忠や柳田ヒロなどによるApryl Foolは、The DoorsやCreamの曲などをパニック(新宿)、スピード(六本木)といったディスコ/クラブでプレイしていた。細野によると、Apryl Foolは「ダンス・バンド(※註1)」で、日本語と英語を使い、激しいセッション的楽器のやりあいをする時、シャウトは英語で発声されていた。

 “幻の都市への進撃”は、細野がBuffalo Springfieldからローラ・ニーロまでに触発され、ダンス・ミュージックではない音楽を志向しはじめた当時、遠藤賢司などのバックをつとめ、日本語の可能性を感じたことをきっかけにはじまったとされる。

 こうして彼らは、懐かしい1950年代の自分たちの子供時代の東京、特に松本隆が育った青山、麻布、渋谷の三角形のなかを、谷川俊太郎や山之口獏といった現代詩のなかの言葉を足がかりに、既に消滅したものをより広い視野から復元することで、想像上の空間へたどり着いた。その足がかりは、文学だけではない。はっぴいえんどの空間の端のもう一方は、つげ義春、永島慎二といったマンガなどサブカルチャーにも繋がっていた。

 東京と日本各地の1950年代はまだ戦後だった。映画『この世界の片隅に』からも想像できるように、焼けただれた戦争の跡にアメリカ軍部の残留と政策によって意図されたアメリカン・メイドのデザインの流通による、新しい、日本とアメリカという地理的には離れてある場所が、奇妙に、そしてあからさまにつながった環境が生まれたときだ。

 ロックのビートのうえ、日本語の歌詞の音節をボーカリゼーションで解体/再構築するには、メロディ/ハーモニーとリズムの関係の見直しから始める必要性がある。松本隆というドラマーが歌詞を書いたことは、その作業に大きく貢献しただろう(ここでのはっぴいえんどの達成は、音楽評論家/プロデューサー萩原健太の素晴らしい『70年代シティ・ポップ・クロニクル』 (ele-king books) に生き生きと描かれているので、一読をお勧めする)。アメリカと日本という実在するふたつの場所を接続し、作りあげられる音と言語の空間“風街”は、1969年、全共闘が国際反戦デイに機動隊によって鎮圧された年から少しずつ構想され、翌年、“ゆでめん”とも呼ばれるアルバムによって具体化された。

 一方、1970年10月、ある雑誌に掲載された記事をはじまりとする、いわゆる『日本語ロック論争』により、はっぴいえんど側(松本隆、大滝詠一)との対立が煽られたフラワー・トラヴェリン・バンドは、グローバルな文脈でのサイケデリック世界の構築を達成していた。7人兄弟のうちたった1人、アフロ・アメリカンの父親を持つジョー山中が英語の歌詞とシャウトを聞かせた彼らは、来日したジャズ・ロック・バンドLighthouseに見出され、単なる曲の寄せ集めではない構成のアルバム『SATORI』をカナダの<アトランティック・レコード>からリリース。トロントで活動していたが帰国(この組曲的な『SATORI』のなかの1曲は、2017年ショーン・レノンによってカバーが発表された)。

 この雑誌『新宿プレイマップ』の座談会において、例えば、内田裕也のいった、

「言葉で“戦争反対、愛こそ全て”と云うんじゃくて若い連中がそこにいてそこにロックがあれば、何か判りあっちゃうと思うし」

 とは、明らかにウッドストック、トロント、ワイト島などで築き上げられた祝祭の空間と、小規模だが他の北アメリカとヨーロッパに数多く点在していたコンサート会場とライブハウスによるロックのネットワークへの期待とつながっている。この地球を覆う音響と視覚と触覚のコミュニケーションのネットワークは、白いミドルクラスの学生たちを支柱とし、ドロップアウト世代を端として世界中へと拡大されていくはずだった。

 フラワー・トラヴェリン・バンドが活動し成果をあげていたトロントを拠点に、メディア論のマーシャル・マクルーハンが「メディアはメッセージである」と身体の拡張を声を大に宣言したのは1967年である。ワールド・ワイド・ウェブの登場を予見したとされるマクルーハンの影響は巨大であり、こうした遠近法は、ロックのネットワークを映像作家/批評家の金坂健二に「幻覚の共和国(※註2)」、美術評論家の日向あき子に「ロックにしびれる世代がつくる無形のコミュニティ(※註3)」と呼ばせた。まだ学生だった渋谷陽一が、のちにその時期を振り返った文章を集めた著書に「メディアとしてのロックンロール(※註4)」と名付けたのも、マクルーハンの影響下にある。

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