ジョージ・クルーニーが『ミケランジェロ・プロジェクト』で描く、国境を超えた「芸術の魂」

『ミケランジェロ・プロジェクト』評

 第二次大戦中、ヨーロッパのあらゆる財産を略奪、あるいは破壊しようとするナチス・ドイツの魔の手から、価値ある美術品を守ろうと立ち上がった男たちがいた。それが、実在した英雄たち、美術品奪還作戦部隊「モニュメンツ・メン」である。

 この、知る人ぞ知る実話を基にした、『ミケランジェロ・プロジェクト』は、彼らの熱い戦いと友情をコメディ・タッチで描く、ユニークな戦争映画だ。そして本作は何より、現代の潮流に逆らうような演出で、じんわりとした熱を内に秘めた、血の通った作品にもなっている。今回は、この熱さの理由、そして、製作、主演、監督、脚本を手がけたジョージ・クルーニーが、この題材を選んだ理由を明らかにしていきたい。

ジョージ・クルーニーの新たな挑戦

 32歳のときに、TVドラマ「ER緊急救命室」の医師役で、はじめて俳優として大きな成功を収めたジョージ・クルーニーは、遅咲きでありながら、ケイリー・グラントやジェームズ・スチュアートを思わせるダンディな魅力で人気を拡大し、いまやハリウッドになくてはならない存在になっている。映画への熱意があり、人望にも厚い彼は、数多くの映画を製作してきた。『ミケランジェロ・プロジェクト』は、監督としての5作目の映画となる。

 戦争映画でありながら、芸術という優雅な要素を扱っている本作は、現代の作品には珍しく、悠長さや静かな味わいを感じ、作中で流れる軍隊マーチ調の音楽とあいまって、『大脱走』や『戦場にかける橋』など、5、60年代の第二次大戦を描いた戦争映画を思い起こさせる。もともと、監督としてのクルーニーの趣向は、彼の俳優としての雰囲気同様にクラシカルだ。デビュー作『コンフェッション』は、オーソン・ウェルズを意識した撮影に挑戦しているし、『かけひきは、恋のはじまり』で、20年代のプロ・フットボールの世界を描いたように、ここでも彼は、表面的な現代性や、商業性をいたずらに追わない作品づくりをしている。それは、ある意味でジョージ・クルーニーだからこそ許される、特権的アプローチであるといえるかもしれない。

 リベラルな政治思想を持つクルーニーは、社会への意識の高い俳優の中でも、とくに積極的に多くの社会活動に従事し、スーダンへの紛争問題についての働きかけによって、国連平和大使にも任命されていた。俳優同士の横のつながりによって、多くのスター俳優がクルーニーの作品に出たがるという強みがあるとはいえ、今までの彼の作品は、政治における正義の失墜や、アメリカの負の歴史などをテーマにし、政治的信念が強く打ち出されるものになっており、見る者を選ぶことは確かだ。しかし今回は、そのような政治性に加え、戦闘アクション、コメディ、友情、ラブストーリーを配置し、最も大衆的な領域での作品づくりに踏み込んでもいる。これは、クルーニーにとっては大きな挑戦であっただろう。本作の明快さと、いきいきとした名優たちの演技を見れば、その試みはしっかりと実を結んでいることが分かるはずだ。

ヒトラーが芸術を弾圧する理由とは

 ナチス・ドイツが、戦時中にユダヤ人を大量虐殺するという歴史的犯罪に手を染めたことは、有名な事実だ。しかし、ナチスの悪行はそればかりではない。軍事力で支配下においたヨーロッパにおいて、国内外の、公的もしくは私的な財産を没収し略奪したのだ。さらに、多くの書物や美術品、建造物などが、総統アドルフ・ヒトラーの意向によって、焼かれ、破壊されていく。

 アドルフ・ヒトラーは、何故このようなことをしたのだろうか。本作でもその構想が描かれている、ナチスが征服する世界各地から集めた美術品を厳選し展示するはずだった「総統美術館」建設計画の中身と、ヒトラーの過去を知れば、その謎は解ける。

 「私の本質は、政治家ではなく芸術家である」とは、ヒトラー自身の発言だが、実際の彼は、過去にウィーン美術アカデミーの受験に失敗した劣等生であり、描く絵自体も、面白さや野心に欠け、最低限の技術があるだけの、才能を感じないものであった。権力を手中に収めてからは、キュビズムやダダイズムなど、同時代の新しい美術の流れを嫌悪し、軍事力で奪ったそれら急進的な絵画を、堕落の象徴として、「退廃美術展」と名づけた展覧会でさらしものにし、もしくは破壊・焼却した。総統美術館には、そのような「退廃美術」でなく、ヨーロッパ全土から略奪した、過去の偉大な芸術家の作品や、自身が奨励する、ドイツ民族の優秀さや勇敢さを題材とした、新古典主義的な手法の絵画を展示するはずだった。

 しかし、深く考えると、そのような過去の偉大な絵画は、新しい挑戦によって、いままでの芸術を革新することで後世の評価を得た作品ばかりである。描かれた当時は、新し過ぎることで批判された物も数多くあっただろう。だから、「ピカソやエルンストのような同時代の革新的な画家は野蛮で取るに足らないものであり、ミケランジェロやレンブラントなどの画家は偉大だ」という考え方は、芸術における基礎的な知識に欠け、美術界の評価をも無視した、ヒトラー個人の勝手な解釈に過ぎない。つまり彼は、個人的なコンプレックスによって、新しい芸術の流れを葬り去り、同時代に成功した芸術家たちの価値を、権力によって否定することで、青春時代の、そして人生の復讐をしようとしていたのだ。

 優れた芸術作品は、資産家が大金を払って所有したものであれ、略奪したものであれ、所有者が粗雑に扱ったり、ましてや勝手に焼却してよいものではない。所有者や体制の寿命などは短いものだが、芸術作品自体は、本質的には世界全ての人の共有の宝であり、未来の人々に残さなければならない遺産である。少なくとも、それが芸術を愛する者たちの総意であり、常識的な考え方だ。ジョージ・クルーニーが自ら演じた、本作に登場するハーバード大学付属美術館の館長・フランクは、そのような観点から、アメリカ軍に対し、ナチスによって蹂躙されていく美術品を守ることの重要性を説き、「モニュメンツ・メン」の発足を認めさせるのである。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「作品評」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる