芸術と猥雑の間にある、窒息するほどの“性“ーー姫乃たまが『LOVE【3D】』を観て考えたこと

姫乃たま『LOVE 3D』を観る

 友人が席を立つと、私は初対面である彼女の恋人(年上のイラン人)とふたりきりになりました。そして唐突に、「あの子、僕と付き合うまでは“ひとりでしてた”みたいなんだけど、僕とセックスするようになってから、しなくなったんだ」と、自慢げに切り出してきたのです。高校生だった私は、「へえ」とも「はあ」ともつかない声で返事をしながら、女の子が性欲を持て余して自慰をしている事実と、恋人同士が(いまは服を着て涼やかに微笑み合っていても)セックスをしているという事実から、目を背けることができなくなったのです。

 ギャスパー・ノエの最新作『LOVE【3D】』は、恋人同士のセックスシーンで幕を開けます。明らかに不自然な、こちらに結合部を見せつけるような体位からは、性的な興奮よりもむしろ、若き恋人達を、その性も含めてすべて表現しようとする監督の気概を強烈に感じて、一瞬、頭の奥で氷が溶けたように冷たくなりました。同時に、これは本当に不自然な体位なのかどうか、わからなくなってしまいました。恋人達のプライベートなセックスを知らない自分に気が付いたのです。

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 私たちは他人のセックスを見慣れています。ビデオ店にも、インターネットの中にも、他人のセックスは転がっていて、私は仕事でそういった映像をレビューするため、月に十数本のアダルトビデオを観ます。男も女も同じように性欲を抱えていることを知っていて、現実の恋人達がセックスをしていることも知っている私は、月に何十時間も他人のセックスを観ているのに、それでも本物の恋人達のセックスを知りません。恋人同士がふたりきりの空間で、相手のことだけを無心で考えてしているセックスを、そういえば私は見たことがありません。

 画面の中のセックスはショービジネスで、知人の口をついて出るプライベートなセックスは人に聞かせるためのもので、人に見せたい人のセックスは人に見せるためのものです。『LOVE【3D】』も、映画というショービジネスであることに変わりはありませんが、恋人同士の本物のセックスを観たことがない自分に、ふと気付かされます。不思議とアダルトビデオを見ている時には、思いつかなかったことでした。

 今作は、パリに住むアメリカ人青年マーフィーが振り返る、かつて窒息しそうなほど愛していた恋人エレクトラとの蜜月が3Dで描かれています。若き恋人同士の情熱のすべてーー性もドラッグも、嵐のような喧嘩もーーが、立体的な映像で切り取られています。映画監督を目指しているマーフィーは、劇中で『一般映画ならば、あからさまにエロティックな場面を含んではならないという馬鹿げた禁止を超越する』という旨の発言をしています。

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 そして『LOVE【3D】』自体も、耳にできたタコが腐って剥がれ落ちそうなほど繰り返されている“芸術と猥褻の境界線”問題に言及する作品になっています。屹立したペニスの先端から射精の瞬間を捉えた映像(再度書きますが、3Dです。飛び出す精液を映画館で観られるなんて感激!)や、点滅するシャンデリアの中に入ったようなドラッギーな映像が、射精のメタファーとして(多分)流れてくるのです。もちろんこの映画は、ただの猥褻な映像群ではありません。

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