『機動戦士ガンダム サンダーボルト』はヒーロー不在の異色作? 血生臭い描写が示す戦争のリアル

『サンダーボルト』が描く戦争のリアル

 1979年にファーストガンダムが放送されて以来、一貫してSF世界を舞台に戦争を描き続けているが、これだけ長く続くシリーズの題材が戦争というのは(機動武闘伝Gガンダムなど例外もあるが)、相当に珍しいことでないだろうか。地上波ではつい先日「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」の1期が終了したが、インターネットではもう一つのガンダムシリーズ「機動戦士ガンダム サンダーボルト」が展開中だ。これが大変に密度の濃い作品となっていて面白い。1話18分しかないのが大変残念だ。なぜもっと見せてくれないのか。

ミニマムな視点に置き換えた一年戦争

 本作はファーストガンダムの「一年戦争」の末期、宇宙世紀0079年の12月を舞台にしたアナザーストーリーだ。主人公は成人で、音楽はジャズをフィーチャーし、ハードボイルドな雰囲気を持たせていたりとガンダムシリーズの中では異色の作品と言えるだろう。

 本作はファーストガンダムと同じ世界設定の宇宙世紀の物語だが、シャアやアムロの大局をかけた戦いとは別の局地戦を描いている。同シリーズのOVAなどではしばしばこうしたサイドストーリーは語られてきたが、戦争とはどれひとつとして一面的ではあり得ず、人の数だけドラマがあるものだ。

 戦後70年を迎えた2015年、多くの戦争映画が日本でも公開されたが、例えば『日本のいちばん長い日』は全体の戦争終結に至る大局に関わる攻防を描いたが、『野火』という映画ではフィリピンのレイテ島で生き延びようとする兵士の苦難を描いていた。どちらも戦争の一側面であるが、テレビシリーズのガンダムは戦争を俯瞰的に捉えた大きな物語を描くことが多いのに対して、OVA版や本作のようなウェブ配信は『野火』のようなミニマムな視点を提供することが多い。

大義のない戦いと欠如するヒロイズム

 本作は、デブリの集積で雷を轟かせる通称「サンダーボルト宙域」をめぐる攻防を描いている。指揮官が次々と戦死し、身分の高さだけで館長代理となったクローディア(重責に耐えきれず薬漬けのヒロイン)率いるムーア同胞団と、負傷で義肢となった者だけで構成されてリビング・デッド師団が悲惨な消耗戦を繰り広げている。主人公のイオ・フレミングはモビルスーツの戦いに魅入られた戦闘狂だ。対するリビング・デッド師団のエーススナイパー、ダリルはイオに殺された同胞の復讐に燃え四肢を切断しモビルスーツと直接接続するリユース・P・デバイスの実験体となる。どちらも戦争の大局を見据えた大義のために戦っていない。まるで大義を信じない彼らの振る舞いは、逆説的に大義を掲げて戦争することへの疑念を感じさせる。

 欠如するのは戦う大義だけではない。サンダーボルトにはヒロイズムも感じられない。鉄血のオルフェンズの主人公、三日月オーガスは冷徹な戦闘マシーンのように振る舞うが、絶妙のタイミングでヒロインを救出するし、仲間のピンチを幾度も救っている。対してサンダーボルトのイオは部下の少年兵もヒロインのクローディアを助けることもせず、自らの戦いに興じる。

 イオの乗り込むフルアーマー・ガンダムの初出撃シーンは特に強い印象を残す。本作のメイン機体の初出撃のシーンは、高性能なガンガムの華麗な活躍を描くのではなく、敵パイロットの視点にカメラが置かれ、イオの乗るガンダムが無慈悲に襲いかかるように描かれる。初出撃からして悪魔のような描かれ方である。ヒロイズムの入り込む余地は全くない。味方を守る英雄的行為は、相手方の犠牲とバーターだ。敵側の視点からガンダムを描くことの意味がここにある。クリント・イーストウッド監督作『アメリカン・スナイパー』で描かれた実在の狙撃手クリス・カイルはアメリカでは多くの仲間を救った英雄と讃えられ、イラク側からは悪魔と恐れられた。リビング・デッド師団のダリルもカイルと同じ狙撃手だが、多くの仲間を救い、多くの的を葬った。両陣営をほぼ等価で描く本作は、どちらの悲劇も目撃することになるため引き裂かれる。

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