“家族のつながり”の危うさが浮き彫りに 『淵に立つ』がもたらす、異常な緊張感の正体

『淵に立つ』が描く人間のおそろしさと希望

 大人しいと思っていた人間が突然キレたり、清廉潔白に見える人間が欲望をむき出しにしたりと、ある人間が今までと全く違う顔を見せる瞬間、私たちは何ともいえない恐怖を感じる。それは、今まで自分が本当だと信じていたものが揺るがされてしまう怖さかもしれない。『淵に立つ』は、まさにそれが何度も何度も味わえてしまう、おそろしい映画だ。今回は、ひたすら異常な緊張感と不安感に包まれている本作が、なぜここまで我々観客の背筋を凍らせるのか、そして何を描こうとしているのかを、可能な限り深く読んでいきたい。

 本作で浅野忠信が演じる、八坂(やさか)は、一見すると礼儀正しく親切で人当たりの良い男である。彼はかつての友人である、小さな金属加工工場を営む男、鈴岡(すずおか)の前に現れ、三か月の間だけ自分を雇って欲しいと頼み込み、鈴岡家に住み込みで働くことになる。この家には、敬虔なクリスチャンである鈴岡の妻と、オルガン発表会のため練習に励む10歳の娘が住んでいた。

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浅野忠信演じる八坂

 八坂は鈴岡の娘にオルガンの弾き方を教えることで家族の信用を得て、当初は同居に反対していた鈴岡の妻との距離も次第に縮めていく。その過程で、八坂が前科者であり、しかも殺人を犯していたという過去が明らかになるが、過去の犯罪を後悔し、被害者遺族に定期的に送金しながら謝罪の手紙を書き続け、「贖罪をするために生かされている」と述べる八坂は、犯罪を犯したことのない人間よりも、むしろ善良に見えるかもしれない。ロボットのように背筋を伸ばした姿勢や、普段から着ている白いワイシャツも、仕事をするときに着ている真っ白なツナギも、かなり奇妙ではあるけれど、彼の純真な心を表しているように見える。

 だが同時に、この映画には絶えず不穏な空気が漂ってもいる。八坂のちょっとした行動に対する違和感が、観客の心に蓄積されていくことで、その漂う不穏さは次第に濃くなっていく。それはあたかも、作品が映写されるスクリーン上にできた小さなシミが、少しずつ広がっていき、やがて画面全体を蝕んでいくように感じるのである。

 そして、ある出来事をきっかけに、八坂はおもむろに白いツナギを脱ぎだす。その下に、不吉な毒々しい真っ赤な色のTシャツが現れた瞬間、我々はそれだけでそこに全く違う人物が現れたと感じ、戦慄させられてしまうだろう。今まで自分が本当だと思っていたはずの映画の中の世界が揺らぎ、じつは全く違う世界に足を踏み入れていたと悟ることになる。ちなみに、赤いTシャツを印象的なアイテムにするというのは、じつは浅野忠信によるアイディアだったらしい。

 赤い色は他にも本作のなかで印象的に使われている。ランドセル、リュックサック、茂みに咲く花、発表会のドレス…。「白」と対比される「赤」は、八坂の本当の姿を示しているようでもあり、事態が変化するときの不穏さの象徴でもあり、また登場人物たちの「罪」を表しているようにも感じられる。

 「罪」の概念は本作の重要な要素である。食卓での会話に登場する、母蜘蛛の死骸を食べる子蜘蛛の挿話は、キリスト教における、全ての人間がもともと持っているという「原罪」を想起させる。八坂は鈴岡の妻と二人で歩いているときに、ネコ型信仰とサル型信仰についての話をする。おそらく彼は、神に対してただ受動的である鈴岡の妻に対し、自分が神の信仰者であったならば、自分自身の行為によって神に近づこうとするサル型だと言いたかったのではないだろうか。それは、何か行動を起こすことによって贖罪を果たすというところにつながっていくだろう。その例として、遺族への送金や謝罪がある。

 その後の八坂の変貌によって、鈴岡家に深刻な悲劇が訪れることになる。しかし鈴岡は意外にも「ホッとした」という言葉をもらす。不気味なことに、八坂が新たに起こす重大な事件は、取り返しのつかない悲しみを与えたが、一方である種の連帯感を一家に与えることにもなる。八坂が神に成り代わる執行者(サル)となり罪を裁くことによって、罪にまみれた一家を救ったのだという、非常に気持ちの悪い狂った解釈も可能なのである。そしてこの映画は、たしかにそのことを示唆するような描写がいくつも散見される。

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