人は狂わされながら生きていくしかないーー『民生ボーイと狂わせガール』が観客に問いかけるもの

小野寺系の『民生ボーイと狂わせガール』評

 雨降りでも遅れてても「気にしない」と歌うミュージシャン、奥田民生。そんな、自然体で芯のある男になりたいと憧れる「奥田民生になりたいボーイ」が、「出会う男すべて狂わせるガール」に出会うことで、理想とは真逆に翻弄され、醜態をさらしまくる青春映画が、本作『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』である。

 私もライブで何度か奥田民生のパフォーマンスを見ているが、舞台上でときおりウィスキーをあおって歌うなど、無造作で自由に見える態度に憧れるというのはよく理解できるところだ。ただライブ会場では観客の年齢が年々上がってきているように、奥田民生をロールモデルとして生きる主人公の物語というのは、いまの若い世代には響きにくいかもしれない。週刊誌『SPA!』に連載されていた原作漫画を描いた渋谷直角が、奥田民生のちょうど10歳下の1975年生まれなので、そのあたりの世代の感覚だと考えれば違和感はないだろう。

 この原作漫画や、それ以前に同じ作者によって描かれた『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』は、そのタイトルからも想像できる通り、ポップカルチャーやサブカルチャーに傾倒する若者たちの人生や人格を「イタい」ものとして辛辣に描く場面が多く、読者を選ぶ作品だったように感じられる。映画版では、その点がマイルドに表現されているため、一般の観客が受け入れやすいものになっていた。

 監督の大根仁は、『モテキ』や『バクマン。』など、やはりサブカルチャーや出版業界を舞台とした漫画原作の青春・恋愛ものを手がけている映像作家であり、それらの要素がつまっている本作を手がけるというのは必然的であろう。『モテキ』は、カラオケ映像のパロディー演出や、後ろ向きな心情の吐露の描写、映画版ではスパイク・ジョーンズ監督によるビョークのミュージック・ビデオの手法を再現しているなど、「自分を特別だと思っているオタク青年」のイタい自意識を、ときに客観的に突き放して、ときに主観的に寄り添いながら、ポップな映像、編集で表現していたのが画期的だった。

 30代の雑誌編集者である「民生ボーイ」"コーロキ"に妻夫木聡、彼が仕事で知り合う、ファッションブランドのプレス(広報)をやっている「狂わせガール」"あかり"に水原希子と、本作はキャスティングによって原作のイメージが一新されている。『ノルウェイの森』でも奔放な役を演じていた水原希子は、本作でもその軽やかな雰囲気を活かし、ほぼ「概念」のような存在になっているように見える。彼女が映画の被写体として面白いのは、第一に顔の形状である。カメラの角度を少し変えると、キュートにもワイルドにも、天使のようにも悪魔のようにも、大きく印象が変化する。この多重的なイメージが、コロコロと態度が変わり、腹の底では何を考えているか分からないミステリアスな今回の役柄にフィットしているといえるだろう。

 対して妻夫木聡は、気のせいかもしれないが、なんとなく口元を終始「への字」にしているように見え、微妙に奥田民生の顔真似をしているように見えなくもない。付き合い始めた当初はアツアツの状態だった二人だが、次第に立場の差が明確になっていき、あかりを絶対に失いたくないコーロキは、彼女の一挙手一投足におそれ、あわてふためき、所かまわず悶絶する。彼女からの連絡が一日途絶えると不安にかられ、ついつい連続でメッセージを送ったり、職場に電話したり、待ち伏せするなど、ストーカーまがいの行為をしてしまう。その姿に、もはや「奥田民生」の面影はない。恋愛に狂って理性を失っていくイメージは、ある場面ではビル群を望む港湾で必死に泳ぐというシーンで、文字通り「都会の荒波にもまれている男」として象徴的に表現されている。これは内田裕也主演『コミック雑誌なんかいらない!』のビジュアルのパロディーになっており、また違ったタイプのミュージシャンの印象が重ねられているのが面白い。

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