『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』は複雑かつ美しいーーパブロ・ララインが描く鋭利なるミステリー

荻野洋一の『ネルーダ』評

 芸術、とりわけ映画にあって複雑であることは、その質を保証しない。あれこれとクドクド説明にいそがしい映画ほど醜いものはない。映画は単純であればあるほどいい。単純さこそ映画芸術の美の在処であり、基準でもある。たとえば喜劇王チャーリー・チャップリンが一輪の花の匂いを嗅ぎ、愛する女性に思いを馳せるというアクション。このシーンの滑稽にして切実な単純さには、永遠の映画的な美が刻まれている。そこにはごちゃごちゃとした心理的な説明を要さない、映画の根源的な美が宿っているのである。

 いっぽう、複雑でありつつも美しくもあるという困難な例を、今日の映画界で見つけることができるとすればうれしいことだが、南米チリ出身のパブロ・ラライン監督の新作『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』が、それを嘘のように実現している。主人公は、チリの詩人パブロ・ネルーダ。実在の人物であるが、はたしてこれがどれほど史実や人物の経歴に忠実なのか、そのあたりはアテにできない。映画の冒頭、国会議員でもあるネルーダが、議事堂の瀟洒な広間で議長と非難の応酬をする場面。しかしあの広間にはなぜ、小便用の便器が設置されているのか。国会議員たちは、あたかもそこが宮殿の社交場であるかのごとく酒を飲み交わし、議論したり、取材に応じたりしている。そこは広間なのか、トイレなのか。

 パブロ・ネルーダに、大統領を非難したかどで逮捕状が出る。そこに登場するのが、南米のスター男優ガエル・ガルシア・ベルナル演じる警視ペルショノーである。大統領じきじきにネルーダを捕まえてくれと依頼されたペルショノーは、意気揚々と首都サンティアゴにネルーダ包囲網を敷く。ところが、ネルーダはいっこうに捕まらない。ネルーダはあえて自分の痕跡を現場に残していくようになる。ペルショノーにはネルーダを逮捕する気があるのか、ないのか。…答えはSiであり、Noである。詩人ネルーダと警視ペルショノーの追跡劇は、ゲーム盤の様相を呈する。ネルーダは政治犯として追われつつも、その立場がいっそう彼の詩心に火をつけ、新作が旺盛に書かれていく。ネルーダにとってこの弾圧は、文学的な霊感に刺激を与えるものとなっている。いっぽう警視ペルショノーはあきらかにネルーダ詩のファンであり、ネルーダへの文学的コンプレックスを隠そうとしない。「私が詩人だったとしてもおかしくははい」と警視は述べる。大芸術家を追う、一介の官憲の犬。

 現在上映中の、やはりチリ出身の映画作家アレハンドロ・ホドロフスキーの最新作『エンドレス・ポエトリー』では、映画作家本人の少年時代が描かれるが、その彼がパブロ・ネルーダの銅像に、嘲りの念と共にペイントしてしまうというシーンがある。チリの反体制にもいろいろあるのだなと思う。本作のなかでもパブロ・ネルーダはある面では批判の対象ともなっている。パリ育ちのアルゼンチン貴族令嬢を妻とし、豪邸でパーティを繰り広げる。とても左翼陣営の代表者と思えない豪遊ぶりである。彼は包囲網をくぐり抜け、夜の娼館に繰り出して放蕩を楽しむ。イタリアの映画作家ルキーノ・ヴィスコンティ同様、「赤い貴族」と評されても仕方がない。娼館でも、その自慢の美声でもって自分の詩を朗々と暗唱してみせる。なんたる俗物か。

 愛すべき俗物。警視ペルショノーは、ネルーダを侮蔑し、罵倒し、そして誰よりも崇拝する。この構図は何に寄るのか。たくさん例があるにちがいないが、その最もすぐれた例は、オーソン・ウェルズ監督・主演による権力均衡劇『アーカディン/秘密調査報告書』(1955)だろう。スペインの大富豪ミスター・アーカディン(O・ウェルズ)と、彼をゆする退役軍人ガイ(ロバート・アーデン)こそ、ネルーダとペルショノーのモデルではないか。追われる者と追う者が、たがいに対立しつつもあからさまに同一視され、潜在的に癒着していく。警視から見れば、詩人はもうほんの数十メートルの距離にいて、一発の銃弾で仕留められる獲物に思える。いっぽう詩人から見れば、山の向こうから聞こえるノラ犬の遠吠えに聞こえる。

 この逃走劇=追跡劇の真のシナリオライターは誰なのか。追われる詩人=反体制派議員パブロ・ネルーダだろうか。それとも、この映画のナレーターも務める警視ペルショノーだろうか。はたまた、警視に逮捕命令を出した、かつてネルーダたちが大統領選挙の際に支援したガブリエル・ゴンサレス・ビデラ大統領だろうか。ビデラは当選後に傀儡的な親米政策を採択し、支持者を失望させた。ネルーダ陣営は、ビデラをかつて支援したことを後悔する。この映画の舞台となる1948年というのは、第二次世界大戦が終わって3年後である。平和が訪れて間もないが、世界は早くもアメリカとソビエト連邦の二大超大国による「冷戦」の真っ只中にあった。アメリカ国内では共産主義勢力に対する恐怖が増大し、「赤狩り」という形でパニック現象と化した。この趨勢は、アメリカの足元、中南米に波及する。そうした影響下においてパブロ・ネルーダの政治的影響はもちろん、彼の詩的喚起力さえもが、排除の対象となった。ビデラ大統領によるネルーダ討伐命令、警視ペルショノーによる執拗な捜査、そして市民のネルーダ支持と匿い……それらのすべてのシナリオライターは、チリではなく、アメリカ合衆国である。

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