アイドルは「未成熟」を越えられるか? SDN48、恵比寿マスカッツの試みを振り返る

 アイドル、ことに女性アイドルと呼ばれる存在は、しばしばある一時の儚さとともに語られ、またその儚さが見せる輝きがひとつの大きな価値とされやすい。本連載はジャニーズとの比較について書いた前回からアイドルの「成熟」をテーマにしているが、女性アイドルがアイコンとなって表現されてきたもののうちには、ライブパフォーマンスであれ映画であれ、そうしたうつろいやすい時期のジュブナイルな儚さを閉じ込めたものが多くある。このような一時の特性は、その必然として一人の人物の内に長期間保持されるものではないし、それゆえにネクストステップとしての「成熟」が争点になりやすい。そして特に今日、グループアイドルが全盛となっていることで、アイドルと「成熟」にはそれ独特の性質、あるいは困難さが色濃く生じてもいる。

 歌もののグループアイドルが「アイドル」を主導することで強くなったのは、「アイドルである/ない」という線引きの明示化だ。それはある面では「アイドル」を明確にジャンル名にするということでもある。たとえばアイドルと呼ばれる人々が主としてグループではなくソロで活動する芸能人であったような時期の場合、「アイドル」とは職種ではなくあくまで性質をあらわすための記号になることが多い。それらの人々はその活動範囲によって「歌手」であったり「俳優」や「モデル」であったりする。この場合、「アイドル」と呼ばれる各人はその活動の方向性やスタンスによって「アイドル」との距離感をはかろうとするし、その活動のあり方をもってアイドルを「脱する」身振りを体現していく。かつての森高千里や広末涼子を想起すれば、「アイドル」はそれ固有のジャンル名ではなく、特定の年齢層の芸能人の性質に向けられた呼称としてあったことがうかがえる。彼女たちは「アイドル」であると同時に「歌手」でも「俳優」でもありえたし、「アイドルである/ない」はある特定の時点をもってきっぱりと切り替わるようなものにはなりにくい。

 それに対して今日、グループアイドルが全盛となり、それ固有のシーンが形成されたことで「アイドル」は特定のジャンル名になる。それを象徴するのが「卒業」のシステム化あるいはルーティン化だ。「卒業」はアイドルというジャンルの軸がグループアイドルに置かれることで、アイドルにとって不可分の儀式のようになってきた。グループからの卒業は、ほとんどの場合「アイドル」というジャンルからの「卒業」を意味する。このとき、「卒業」による「アイドルである/ない」の線引きはそのまま、「未成熟/成熟」という線引きと軌を一にしやすい。本連載の第1回、第2回でアイドルシーンに存在する「恋愛禁止」という風潮の問題性について整理したが、まさにアイドルでなくなることが「恋愛解禁」になるという、本来きわめていびつなありように結び付けられることを考えても、「アイドル」という肩書きを背負う限り、ある種の未成熟性に留め置かれる傾向をうかがうことができる。また前回述べたように、アイドルグループに所属することが、アイドル「以外」へのジャンルに向けてのステップと位置づけられていることもまた、「未成熟/成熟」という発想ときわめて溶け合いやすい。このようにグループアイドルというジャンルそのものが未成熟性を引き受けてしまっているような事態をみると、「アイドル」というジャンルに属しながら「成熟」のかたちを模索することは現状、とても困難ではある。

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