大黒摩季は“人生の応援団長”だーー同性ライターから見たカッコよさとは?

 12月23日放送の『ミュージックステーション スーパーライブ2016』(テレビ朝日系)に、今年歌手として復帰した大黒摩季が出演する。病と闘うために、歌手活動休止という苦渋の選択をしたのが2010年のこと。それから6年。彼女は、さらに凛々しくなって帰ってきた。先日オンエアされた『FNS歌謡祭』(フジテレビ系)第1夜でも、ブランクを感じさせない力強い歌声を披露。ネット上でも「カッコよすぎる」「完全復活!」「変わらずいい声」「惚れる」と絶賛するコメントが見受けられ、“大黒摩季”がTwitterでトレンド入りするほど盛り上がった。90年代に「女心の代弁者」として、ミリオンセラーを連発した大黒が、時を経てもなお愛され続けているのはなぜか。その魅力を探ってみたい。

ヒリヒリ生きる女性たちを笑顔にしたかった

 大黒のルーツは北海道の札幌にある。実家は、パンや菓子を製造するメーカーを経営。忙しい両親に代わって、幼き日の大黒が弟の面倒をみていたと、11月23日にオンエアされた『どさんこワイド179』(STV)で語られている。

 商売をしていたこともあり、母も祖母もいつもヒリヒリしていたのだと話す大黒。「笑ってほしい」その一心で、大黒は歌い始めたのだそうだ。母の愛に甘えたい時期に「寂しい」と駄々をこねるのではなく、自らの愛を音に乗せることで、家族の心を温めてきた大黒。歌えば、目の前の人が笑顔になる。それが、大黒の歌手活動の原点だった。

 11月6日に放送された『情熱大陸』(TBS系)では「ママに笑ってほしくて、鼻歌を一緒に歌ってた。だから一番いい鼻歌を作りたかった」と語り、生まれたのが名曲「ら・ら・ら」だという。活動休止中に、介護が必要になった母を東京に呼び寄せ、初めてゆっくりと母娘の時間を過ごした。番組では、大黒が「がんばったの」と頭を差し出して、母親になでてもらう姿も。それは、かつて「寂しい」と言えなかった少女時代を取り戻しているかのごとく。

 環境や関係性が変わっても、母に笑顔になって欲しいという思いは変わらない。「mama forever」というタイトルの曲を作るシーンも、実に印象的だった。家族の介護は確かに大変である。決して、きれいごとで済まされない場面もあるだろう。そんな現実とも向き合って、大黒は再び歌い始めた。嬉しいときも、悲しいときも、ピアノを弾いていた少女のころと同じように。音楽で、目の前の人が笑顔ですることをモットーにしているのだ。

どうやって生きた証を残していくか

 大黒が治療に専念していたのは、重度の子宮疾患だった。病気が見つかったのが、26歳のとき。いわゆる女の幸せを取るか仕事を取るかという、究極の選択を迫られたという。それが奇しくも、初のソロライブ『LIVE NATURE#0〜Nice to meet you〜』の直前だった。自分の体と向き合いながら、歌い続けることを選んだ大黒は、実に20年もの間、人知れず闘い続けていたのだ。「これだけ守ってきた歌や音楽をおいて、ほしいものはない」歌手として生きてきた大黒にとって、この6年がいかに苦悩に満ちた日々であったか計り知れない。

 そんな試練に立ち向かいながら、大黒は校歌の制作と、歌手を目指す学生を導く専門学校の講師という道を歩み始めた。歌い継がれる楽曲を作ること、そして次世代を担う歌い手を育てること。大黒の生きた証を残したいという悲願を叶えたのも、また音楽だったのだ。

 8月28日に放送された24時間テレビのスペシャルドキュメンタリー『大黒摩季・奇跡のシャウト~音楽と生きる道』(日本テレビ系)で、大黒は次のように語っている。「人生ってこんなふうに生きたいとか、予定はこうして、目標はこうしてって言ってても、結局いろんな事件とかトラブルとか病気とかいろいろあって。道、曲がるじゃないですか。一本道が通行止めになって、違う道に行って、どんどん地図が変わっていくわけじゃないですか。そんな私の人生が全部、音になっていればそれでいい」。

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