never young beachのライブに見た、音楽家としての振れ幅 “日常”のムード溢れたツアー最終公演

ネバヤンライブに見た音楽家としての振れ幅

 この無邪気さは能天気、オプティミズムなどでは決してない。彼らはバカ正直なまでに真面目に音楽と向き合い、音楽とじゃれあっているだけだ。そんなひたむきに戯れる姿がそこにいる人々を笑顔にさせないはずがない。遅ればせながら映画『ラ・ラ・ランド』を鑑賞し、音楽とエンターテインメントについてショービズと成功について多々考えさせられていたところで観た今回のnever young beachのライブ。他者を楽しませることと人気を集めることとの、実はそう簡単に結びつくものではないはずの複雑な因果関係が、まるで知恵の輪がスルリと解けてしまう瞬間を目の当たりにした時のような快感となって目の前で崩壊してしまった。

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  思えば去年夏、never young beachがデヴェンドラ・バンハートの京都公演のフロントアクトをつとめた際にも、大好きなデヴェンドラとの共演のため……とばかりに、東京からメンバー全員、機材と一緒に小さなバンにぎゅうぎゅうに乗りこんで夜走りでやってきた。なのに、僅か数時間の滞在でも彼らは集中して熱のこもったパフォーマンスを見せてくれたのだ。

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 損得を考えないまるで子供のような無尽蔵なその情熱たるや! いや、そうしたエネルギーとエモーションを持ったバンドは星の数ほどいるだろう。だが、never young beachが『ラ・ラ・ランド』を観て筆者が考えさせられた音楽とエンターテインメントとの一筋縄ではいかない歴史と因果関係のあれこれを、スルンと知恵の輪を解くかのようにいともあっさりと崩壊させてくれたのは、“頑張ってる俺たち”を悲劇の主人公にしたり、センチメンタルな物語へと昇華させたりは一切せず、むしろバカみたいに無邪気になってもうこちらの世界へ戻ってこれなくなっちゃった自分たちを徹底的に笑い、そんな不恰好な姿を惜しげもなくさらけ出しているからだ。だから私たちはいつだって彼らのパフォーマンスを観ると自然と笑顔になるし、“また夢中になっちゃったよ”とばかりに演奏に邁進する姿をからかいたくもなる。(その年の秋に実現したデヴェンドラとnever young beachのメンバーとの友情対談記事はこちら

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安部勇磨(Vo/Gt)

 チケット完売となったこの日のライブはツアーの最後の最後に追加された東京での最終公演。あっちに行ったまま戻ってこれなくなっちゃった(戻って来る気もない)、どうにも止まらない自分たちがどうしようもなく可笑しくて仕方ない、といったムードが最初から最後まで間断なく続いた。だがきっと彼らにとってはこれが日常だ。あっちに行って戻ってこない自分たちが楽しくておかしくてしょうがないという日常。オーディエンスもそれがわかっているから、場内は極端に興奮の坩堝と化すこともなく、ビールの入ったカップを手にしたままユルユルと横に揺れる。フンフンフ~ンというそこかしこから聞こえてくる、ボーカルの安部勇磨の歌うメロディと唱和するような鼻歌は、オーディエンスにとっても日常なのだ。

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巽啓伍(Ba)

 ライブ前半は昨年発表された2ndアルバム『fam fam』の曲が、冒頭からほぼ曲順通りに進む。驚かされたのは2曲目、高田渡のカバー「自転車に乗って」が少し小走り気味に歩くようなテンポで軽快に奏でられてから。デヴェンドラ・バンハートもかくや……の新世代トロピカリアと捉えることもできるような土着的かつ洗練もされた、どこかイビツなグルーヴがどの曲にも貫かれていたことだ。60年代後半のブラジルで発祥したトロピカリア(トロピカリズモ)というのは、新たな音楽の要素を注入するようなアグレッシブな働きかけによって展開された、また一定の思想や主張を伴ったある種の芸術運動、革命。目の前の現実と果敢に向き合った実にハイブリッドな音楽であるとされてきた。

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