w-inds. 橘慶太×NONA REEVES 西寺郷太 対談【前編】 楽曲制作への目覚めと活動原点振り返る

橘慶太×西寺郷太対談

 3人組ダンスボーカルユニット・w-inds.のメンバーであり、作詞・作曲・プロデュースからレコーディングにも関わるクリエイターとして活躍中の橘慶太。1月からはKEITA名義で12カ月連続シングルリリースすることを発表するなど今年も積極的な音楽活動を行っている。そんな彼がコンポーザー/プロデューサー/トラックメイカーらと「楽曲制作」について語り合う対談連載「composer’s session」の第4回ゲストは、マイケル・ジャクソンや80年代音楽シーンの愛好家・研究家としても知られるNONA REEVESの西寺郷太。バンドでダンスミュージックをやることが難しかった青春時代の苦悩や、橘とマイケルの歩みに見出した共通項など、過去と現在を照らし合わせることで新たな発見を得ることができた有意義な時間となった。【前編】(編集部)

二人の“楽曲制作”への目覚めは幼少期?

橘慶太

橘慶太(以下、橘):西寺さんが楽曲制作に興味を持ったきっかけはなんだったんですか?

西寺郷太(以下、西寺):僕は今、45歳なんですけど、最初に作曲し始めた時から音源が残ってるんですよ。それが10歳なんですけど。

橘:10歳!

西寺:インターネットもなく、まだカセットしかない頃の話で。当時マイケル・ジャクソンを好きになって、「Billie Jean」という曲がきっかけでした。あの曲はシンプルだけどグルーヴィーなドラムと繰り返されるベースラインの鳴りが特徴的で、それまでテレビの歌番組とかで聴いていた歌謡曲に比べると曲の構造がわかりやすかったんです。日本で愛される歌謡曲っていうと、音数が多くて豪華絢爛な、お弁当に例えるとたくさんのオカズが入ってる「幕の内弁当」みたいなサウンドが多いんですけど(笑)。「Billie Jean」の「音数の少なさ」は子供心に衝撃でした。ドラム、ベース、ギター、すべての楽器が把握しやすくてキャッチーで。それもあって、僕は最初に作り始めた頃から頭の中に「全体的な演奏」が鳴っていました。歌メロだけじゃなくて、あくまでもイントロから最後までのトータルなサウンド。その「自分の頭で鳴ってる音」をどうやって録音したらいいのか、そうしないと人には聴かせられないですからね。

橘:最初はカセットテープに。

西寺:そう。曲を作っても忘れたりすることがあるから、これは録っとかなきゃいけないなと。それでカセットに録り始めたところから始まってます。端折って話すと、そこから4トラックのMTRを買ったりしながら、1995年、大学3年生でMacを買い、徐々にDTMにハマってゆくと。最初はVisionというソフトを使ってたんですけど、途中でなくなってしまって(笑)。15年前くらいからLogicになって今に至る感じですね。

橘:子供の頃に録っていた音楽に関心があるんですけど、カセットにメロディを歌って録ってたということですか?

西寺:最初はメロディを歌ってたんですけど、いわゆる主メロだけが好きだったわけじゃなかったというか。例えばマイケル・ジャクソンの「Billie Jean」だと、やっぱり一番かっこいいのってイントロのドッチタッチといったドラムや、ドゥンドゥンドゥンドゥンといったベースラインなのに、「クッ!」とか「アッ!」とか歌のメロディだけ歌って録音してもなんのこっちゃわからないじゃないですか(笑)。

橘:なるほど、最初から興味はビートやインストゥルメンツの方に向いていたんですね。

西寺:そうです。ただ近くに曲を作っている大人もいなかったし、ネットもないしググれない(笑)。一人で思い悩んでどうしようかと。ある日ふと思いついたのが、持っていたラジカセとウォークマンを使う方法。例えば、The Isley BrothersをカバーをしたThe Beatlesの「Twist & Shout」のような曲が思いついた場合、まずラジカセでメインのメロディ〈shake it up,baby〉を歌って録る。その録った〈shake it up,baby〉をラジカセのスピーカーから流しながら、ウォークマンに向かってコーラスの(sheke it up,baby)を歌うと、「俺が2人いるやんけー、やったー」って(笑)。そうやって2トラックを録音する方法を少4の時に思いついて、そこからその歌を流しながらギターやドラムのパートも歌って重ねていく歌の空中ピンポン録音をするようになりました。ただ、カセットに自分で作った歌を歌って録音するという行為が、人に日記を見せるみたいなものでちょっと恥ずかしいことだと思ってたので親にも隠れてやってました(笑)。

橘:それはすごい(笑)。

西寺:そのテープが今も残ってて、『タモリ倶楽部』で何年か前にみうらじゅんさんや伊集院光さんたちと昔若い頃に作ったテープを皆で聞こうという回に出て、その時に日の目を見たんですけど(笑)。そういう時代なんですよ。だからこの連載のKREVAさんとの対談で楽曲制作のきっかけの話でMPCが出てきていて、そういうの使えるようになったの随分後だったなぁ、俺、と思って(笑)。

橘:MPCもない時代。

西寺:さらに、小学生時代にひとりで作詞作曲して録音してるから「歌詞カードを見て歌う」っていうことも思いついたのだいぶん後で(笑)。「めっちゃ、いい歌詞書けた、イエイ!」と思うんだけど、歌ってるうちに二番とか来たら歌詞を忘れちゃう(笑)。それで何カ月か経って、「あれ? これ紙に書けばええんちゃうの?」って気づいたり(笑)。

橘:もはや文明を切り開くみたいな(笑)。

西寺:そう(笑)。そこからカセットの4トラックとか16トラックとかを持つようになって、お小遣いでギターを買い、ベースを買い、ドラムマシーンを買い、高校の時にブラスバンド部でドラムをやって。バンドはもちろん組みたいんだけど、昔からやってきたように自分一人で作ることもしたい。それを解決してくれたのがDAW、Visionを少し使った後の Logic なんですよね。今は本当に助かってるというか、よかったーと思って生きてますね(笑)。

西寺郷太

橘:ということは、Logicが出た時には楽曲の構造を理解できてたってことですよね。僕が子供の頃は分かれたトラックが組み合わさって曲ができているなんて考えたことすらないですもん。最初にLogicを触った時もその理論がよくわからなかったし、本当にゼロから曲作りを始めたので。

西寺:慶太くんが曲を作りはじめたのはいつぐらいですか?

橘:曲作りを始めたのは大人になってからです。でも最近思い出したことがあって、MOTIFっていうヤマハのシンセサイザーを中学校3年生の時に買ってもらっていて。

西寺:その時はもう、w-inds.としてデビューしてました?

橘:デビューするちょっと前ですね。今思えば、僕の音に対する興味はそのシンセで「ドラムの音も出るんだ」みたいなところから始まっているのかなって。でもそこではまだ曲を作ろうというところまでは至ってなかったですね。それで今のメンバーと出会って、まだw-inds.というグループ名もない頃、よく路上ライブをやってたんです。既存の曲を使ってダンスをするんですけど、他の人たちのパフォーマンスを見ていたら曲が繋がってるなということに気づいて。どうやって曲を繋ぐんだろうと思っていた時にMDコンポで編集ができることを知ったんです。そこから「じゃあこの曲と似てる曲を探して繋げてみよう」みたいな、それこそDJのようなことをし始めて。

西寺:へぇー、それをMDで。

橘:はい。だから曲作りへの関心はそこから始まってるんだと思います。そういうことが楽しいと思いつつ、デビューして歌って踊ることをずっとやってきて。それで、2008年くらいに日本の音楽と海外の音楽の音圧、聞いた感じの差に違和感を持ち始めるんです。絶対何かが違うと思っていろいろソフトを買ってみたり、いろんな人にお話を聞いたりして、そこからちょっとずつ知識を入れていって、自分で曲を作るようになっていきました。

西寺:子供の頃はどういう音楽が好きだったんですか?

橘:子供の頃好きだったのはEarth, Wind & Fireですね。僕の母親が福岡でラジオDJとディスコで回すDJの両方をやっていたんです。母が80s好きだった影響でそういう曲ばかり聞いていました。チャカ・カーンとかZhaneとかもそうですね。失礼な話ですけど、日本の音楽を聞いちゃダメだと言われて育てられました(笑)。

西寺:めっちゃ極端(笑)。子供の頃に自分で意識して買った音楽は?

橘:ほとんどないですね。

西寺:ということは、親御さんが持っていたソウル系の音楽を聴いていたってことですか?

橘:そうです。その母が繋いだカセットテープを車の中とかで「あなたが聞くのはこれです」みたいに渡されて(笑)。小学生の僕としてはアニソンも聞きたかったし、当時は嫌々聞いてたんですけど……成長して自分が年を取っていくにつれてどんどん好きになっていった感じですね。

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