山田洋次監督は新しい映画を撮っているーー『母と暮せば』が奏でる、伝統と先進の“交響楽”

山田洋次が『母と暮せば』に込めた情念

 公開初日、映画館がぎっしりと年配の観客で埋まる。近年の山田洋次監督作ではお馴染みの光景だ。この時代、観客を呼べ支持される映画監督というのは稀だ。それは、庶民の生活や家族の問題をユーモラスに、ときにシリアスに描き、観客を魅了してきた巨匠が積み上げた信頼の証である。しかし、個人的に不満に思うのは、若い世代の観客が少ないということだ。そう思うのは、日本映画において、いま最も新しい映画を撮っているのが山田洋次監督だからである。

 『男はつらいよ』シリーズの国民的監督として、大衆娯楽作を撮り続けた明快なスタイルと職人的技術はそのままに、とくに『藤沢周平 三部作』以降は、躊躇なく尖った作家性を発揮し、日本映画を代表する名画である、市川崑監督の『おとうと』、小津安二郎監督の『東京物語』のトリビュート作品を手がけ、さらに、正面から戦争を捉えた『母べえ』、『小さいおうち』では、今まで隠れていた政治性までも前面にさらけ出し、悲痛な絶叫のような情念が炸裂する。この約10年ほどのうちに、山田洋次監督は、これほどの鬼気迫る傑作を撮り続けたのである。そして新作『母と暮せば』も、それらをさらに前衛的に進ませる傑作だった。ここでは、本作がどう“凄い”のか、その中身に迫っていきたい。

井上ひさしの描いた“軋轢”を受け継ぐ映画

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 広島の原爆投下によって死んだ父親が、一人きり生き残った娘のもとに幽霊となって現れ一緒に暮らすという、作家・井上ひさしによる舞台作品『父と暮せば』は、とぼけた幽霊との軽妙な会話からなるファンタジックな喜劇であり、また原爆で生き残った人間の心理を深層まで掘り起こしていく作品でもある。

 原爆が地上に落下する瞬間、娘は自宅の庭で手紙を取り落とし、拾おうと思ってかがんだ。それと同時に炸裂した高温の“死の光”は、すぐ隣にいた父親を飲み込む。たまたま庭に置かれていた石灯籠が熱線を遮ったことで、娘の方は命拾いをするのだ。そして、手紙を受け取るはずだった彼女の友達は、やはり原爆で命を落としたという。その後、娘には恋の相手が現れるが、彼女は「父や友達が死んだというのに、自分が幸せになってはいけない」と苦しむ。父親の幽霊は“恋の応援団長”となって、そんな娘の未来を救おうとするのである。

 この描写のように、当時の広島の市民にとって原爆が落ちることは、もちろん寝耳に水の事態であり、その後の生死は、たまたまの運に過ぎない。しかし生き残った者達は、その“たまたま”に何らかの意味を感じ取ってしまい、死者に対し罪の意識を感じてしまう。これは、井上ひさしが取材して得た実際の被爆者の心情であるらしい。ここで描かれる、人間の心理のなかにある、生きる意志と、死者への罪悪感という矛盾した軋轢は、戦争の犠牲となったのは死者だけでなく、生き残った者すら苦しませ続けることを示し、戦争のおそろしさを、より深く捉えることに成功している。

 高い評価を得て映画化もされた『父と暮せば』だが、井上ひさしは生前、“ヒロシマ”を描いたら“ナガサキ”の惨状も扱わなければならないということで、同じように原爆投下後の長崎を題材にした『母と暮せば』の構想をあたためていたという。その企画を、井上ひさしとの繋がりがあった山田洋次監督が、映画作品としての意匠を加え、新しい作品として撮りあげたのが本作なのである。だが、そのテーマは『父と暮せば』に共通している。

家族劇の枠をはみ出す、生と死の綱引き

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 原爆投下から三年後、吉永小百合が演じる、原爆投下を生き延びた伸子のもとに、二宮和也演じる、大学で講義を受けている最中に原爆の直撃を受け絶命した、息子・浩二の幽霊が、死んだままの学生服の姿で現れる。生前からおしゃべりだった浩二は、伸子の寂しい一人住まいに度々現れては会話をするようになる。『父と暮せば』の父の幽霊が、娘の“恋の応援団長”となるように、浩二はときに応援団の姿にもなり、母を励ますのだ。

 母の前だけに姿をあらわす浩二の気がかりは、交際していた町子の現在の様子だ。町子は「うちは生きてるのが申し訳ないの。ましてや結婚して幸せになるなんて、そげんことしたら罰が当たります」と、死んだ浩二に操を立て、伸子の世話をして生き続ける決心をしている。彼女に未練がある浩二は、彼女の“恋の応援団長”には到底なれず、逆に伸子に諭されることで、次第に町子の新しい恋を許していく。この、幽霊が親に説教されて成長するというのは新しい。

 もちろん、生きている人間の幸せを願うことは、道義的に正しい考えであるだろうし、物語も、その方向へ進んでいく。しかし、幽霊になった浩二の葛藤を目の当たりにしている観客や伸子にとって、それは“残酷な正しさ”にも映ってしまうのは確かだ。正しく献身的に生きてきた伸子は、浩二から離れ幸せになっていく町子を見届けた後、はじめて憎しみの言葉を口にする。『母べえ』でも描かれた、清廉な人間の底に沈殿する隠された情念は、背筋を凍らせるほどにおそろしい。この、暖かな家族劇には到底収まらない描写こそ、山田洋次監督の近年の作風なのである。そして本作は、彼女の間違った姿勢にも断罪を与えず、むしろよりあたたかなまなざしを向けているように見える。

 寂しくなると浩二の部屋で過ごす伸子を、「このまま消えてしまうように見える」と町子が話すように、彼女は息子の幽霊を追って“死”に吸い寄せられていく。闇物資を売買するバイタリティを持った“上海のおじさん”は、彼女を“生”の世界に引っ張ろうとする。そして浩二の幽霊は、彼女を励ましもするが、“死”の世界に誘ってもいく。この綱引きに勝利するのは、“生”であるべきである。しかし、“正しさ”はときに残酷でもある。物語は、物議を呼びそうなラストシーンに進んでいくが、この道行きはそのまま、喜劇を得意としたハリウッドの映画監督・ジョセフ・マンキーウィッツの『幽霊と未亡人』のラストシーンの引用にもなっている。幸福そうな二人の歩みを描く衝撃的な結末は、幸せとは何か、人間とは何かということを、きれいごとでは収まらないレベルで問いかけ、観客に深く考えさせるものとなっている。

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