菊地成孔の『山河ノスタルジア』評:中国人は踊る。火薬を爆発させる。哀切に乗せて。

菊地成孔『山河ノスタルジア』評

カンヌのパルムドール候補

 ワタシはアカデミー、グラミー、トニー、カンヌ、の各授賞式、そしてUFCの中継、BET(BLACK ENTERTAINMENT TELEVISION)アワードの中継を見るためだけに各種ケーブルテレビと契約し、金をドブに捨てていると言われているアンチコスパの徒だと目されていますが、そうでもありません、これだけで充分元は取れています。中でもカンヌ映画祭2015の授賞式、特にパルムドール候補作品の一覧シーンはとても楽しみました。

 受賞こそフランス映画『Dheepan(aka Erran)』(邦題『ディーパンの闘い』)という作品で、「パリ市周縁の荒廃、特に移民の問題が絡んだ抗争劇」という重い素材を扱いながらも、フランス映画を明らかにネクストレヴェルに上げた傑作ですが、この作品も含む17作品全部ーーそれは「世界中の映画」ですーーが、各30秒ぐらいに編集され、流麗に紹介されて行くコーナーは、今でも見返したりするほどうっとりします。アカデミー賞には無い、欧州文化の粋というものでしょう。これぞセリーの美と言いましょうか。

 中でも、<白樺林の斜面での、高速の能のような、ミニマルな斬り合い>には一瞬で心をつかまれ、これ絶対観に行こう、日本でやらなかったらフランスまで観に行こう、アカデミーのノミニーと違って、カンヌのそれは、下手すると受賞しても日本で観れないことさえあるし、等と思っていたら、それはホウ・シャオシェンの『黒衣の刺客』で、つまり偶然にも当連載の初回対象になったので(参考:菊地成孔が読み解く、カンヌ監督賞受賞作『黒衣の刺客』の“アンチポップ”な魅力)、ちょっと得したな、と思っていたところ、今年は清く正しく映画批評を頑張っていることによる神からのご褒美か、今回、同様事が連続しました。

 そもそも、「一瞬で心をつかまれ、<絶対に観に行こう>、ダメならパリで」と思った作品が5つありました(既に東京で観ていて、大変に感動したトッド・ヘインズの『キャロル』は除いて)。

 そのうち、『黒衣の刺客』は当連載用に拝見し、ガス・ヴァン・サントと、ナンニ・モレッティがまだ未見なので、つまり2作は観ています。その2作たるや、腹を抱えて笑い過ぎ、電柱で頭を打つぐらい、くっきりと明暗を分けまして、ひとつは、「バカなの今のイタリアって。いや70年代からずっとか」といった国辱的な発言をノーモーションで繰り出せるほど酷い、パオロ“こいつを「21世紀のフェリーニ」って言ってる奴、誰だ?気は確かか?”ソレンティーノの(生意気にも「8 1/2」をしっかり意識した)『Youth』(邦題『グランドフィナーレ』)(参考:菊地成孔の『知らない、ふたり』評:自他ともに認め「ない」が正解であろう、「日本のホン・サンス」の奇妙な意欲作)で、こんな紛いモン掴まされた上に、過度にシリアスで大掛かりなだけの、内容スカスカな主題歌がアカデミー賞の主題歌賞の候補になったので「アホなのかアメリカ人。イタリアの文化の真贋がわからんかやっぱ」と思っていたら、アカデミーの主題歌賞のオスカーはサム・スミスの佳曲「スペクター」にゴーズ・トゥーしたので一安心。

 と、今回もとんでもなくスリップが長く成ってしまいましたが(まだまだ話す事は山ほどあるんですが・笑・特にアカデミー賞の『キャロル』への冷遇と『ルーム』とエンリオ・モリコーネへの過大評価)、明暗分けた「明」のほう、なかでも最も「いやあ、ヤバいの来ちゃったんじゃないのカンヌ」と震撼に近い感覚を一瞬で与えてくれた作品が、本作『Mauntains may Depart』(邦題『山河ノスタルジア』)でした。

いまどき敢えてのスタンダードサイズ(ほぼ正方形)なんて珍しくないとはいえ

 その紹介映像は「これは、中国の田舎で、おそらく90年代頃のディスコなのだろうな」ぐらいしか解らない、ハンディカムの荒れた画面に、ゴリゴリのエレクトロが爆音で流れ、日本で言うと黄金町ロックフェスティヴァルで踊っているホームレスのおっさん風とか、韓国のポンチャックで踊る、変な背広来た変な髪型のおっさんとか、当時の中国だったら、今の原宿ギャルぐらいに見えただろうな、な女子2人組とか、闇鍋のようなメンツが、各々変なダンスを熱狂的に踊りまくっている映像が、真っ四角な画面の中に写っていたのです。

 しかも、カットが変わると、ジャ・ジャンクー作品のミューズであるチャオ・タオ(友近みたいな感じの人)が両手をグルングルンに回しながらヘッドバンキングして踊っているところに、後ろから「なにコイツ、真の意味でファンキー」としか言い用が無い青年が近寄って来ると、何と!(ここホントに驚いた)何の打ち合わせも無く、ノータイムで背中合わせのステップを綺麗に踏んでから向かい合い(つまり、振り付けがある様な感じ)、日本の昔のディスコみたいなのでした。

 その画面から横溢するのは、猥雑さ、悪徳、その喜び、そしてとにかく、何はなくとも「踊る」という事への日常的なトランス。です。「何だコレ、ジャ・ジャンクーの新作? え? それとも中国から新人のヤバいのキタ?」とか言いながら、後から録画を何度もプレイバックして『Mountains may Depart』と書き写しまして、日本公開を待っていたのでした。

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