『レヴェナント』復讐の旅の果てにあるものーー過酷な大自然の中に描かれた人間の内面世界

小野寺系『レヴェナント:蘇えりし者』評

 アメリカ西部開拓時代、ヨーロッパからの入植者によって未だ征服されていない北西部の奥地に踏み込む狩猟団のなかに、伝説となった実在の人物、ヒュー・グラスがいた。彼は灰色熊に襲われ体中に傷を負い瀕死の状態になり、仲間に見捨てられ森に捨てられながらも自力で帰還したという剛の者だ。本作『レヴェナント: 蘇えりし者』の原作者マイケル・パンクは、この題材を文学作品に仕上げるべく、当時の地勢や生活を物語る膨大な資料や、実際に罠猟に使われる罠を自作するという苦労を重ね、説得力のある物語を創作し、不明な部分を補完した。本作でアカデミー監督賞連覇を成し遂げたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、その物語をさらに改変し、家族、宗教、哲学などの要素を加え、新たな芸術作品としてこの題材を再び蘇らせている。今回は、この作品のテーマと結末の意味を読み解いていきたい。

 監督自身による本作の脚本が原作と最も違う点は、ヒュー・グラスの息子が殺害されるという部分である。実際のグラスは単独で森に捨てられたと伝えられていて、原作ではフィッツジェラルドら二人に裏切られ、置いてきぼりにされたことへの怒りが、彼の帰還の原動力となっていたとある。映画ではそれが、息子を殺された恨みに変更されることによって、より感情移入しやすい設定になっており、その後の追跡劇と対決が描かれることにより、いかにもアメリカ的な「西部劇」に置き換えられたように見える。

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 だが本作は、よくある明快な西部劇とは全く異なる質感を持っていることは確かだ。多量の出血と痛みで意識が朦朧とした状態から、仲間によって掘られた墓穴から自力で脱出するという驚異的な生命力を発揮したグラスは、先住民の追撃や、飢えとの戦い、急流に流され吹雪に遭うなど、およそ考えられる限りのあらゆる苦難に襲われることになる。本作でレオナルド・ディカプリオは、撮影で実際に生きた肝を喰らうなど、本来の意味での「臥薪嘗胆」を重ね、悲願のオスカーを獲得している。

 この映画において圧倒されるのが、やはり本作によってアカデミー撮影賞3連覇を成し遂げたエマニュエル・ルベツキによる、前作『バードマン』に引き続いての長回しのカットである。彼の『トゥモロー・ワールド』での活劇のスケールと難度を大幅に超える、アメリカ先住民の大規模襲撃シーンや、凶暴な熊にグラスが蹂躙され続ける痛ましいシーンが見せ場となっている。だが、むしろ作品が基調とするのは、雄大な自然のあれこれを精緻に写した画面だろう。ロケ隊は開拓時代よろしく極寒の地に踏み込み、ときに凍った川に浸かりながら、撮影者が水面から被写体を追うなど、通常の撮影では得られない臨場感ある映像表現を達成している。

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 『レヴェナント: 蘇えりし者』は、美や過酷さを含めた大自然そのものを写し取っているように思える。しかし、ここで真に描かれているのは、むしろ人間の内面世界である。本作の夢のシーンに登場する崩れかけた教会のイメージは、グラスの「信仰の危機」が象徴化されたものであろう。神を信じ、同時に神を懐疑するスウェーデンの映画作家イングマール・ベルイマン監督は、「神の沈黙」をテーマにした映画を複数撮っている。苦しみのなかに置かれ、ひどい目に遭った人間が神に祈る。だが、どんな悲劇が起こっても、神は何も答えないし、何もしてくれないのだ。

 本作のグラスは熊に体を切り裂かれ、仲間に息子を殺され、先住民に命を狙われ、空腹と痛みに耐えながら歩いている。それでも神はいるというのだろうか。もしいるのなら、何故神は沈黙しているのか。息子を殺したことでグラスに付けねらわれることになる、トム・ハーディが演じるフィッツジェラルドも、劇中で言及するように神を信じていない人間である。彼は先住民に捕らえられたときに、頭の皮を生きたまま剥がされたことがあるという。彼の禿げ上がった頭は、当時の痛ましい悲劇を伝えている。彼が頭の皮を剥がされている間、神は何をしていたのだろうか。追う者と追われる者は、ここでは共に神に見放された者達である。

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