遺産狙いの悪行がなぜ説得力を持つのか? 『後妻業の女』が描く人間の欲望

小野寺系の『後妻業の女』評

 寝っ転がって大福でも食べながら、見るつもりのなかったTVドラマをぼんやり眺めているとき、ごくたまにドラマの内容にハッとして、画面の前に釘付けになり、ラストの主題歌が流れる時分には正座までしているということがある。私にとって、例えばそれは、池広一夫監督の作品だったり、佐々木昭一郎作品だったり、鶴橋康夫作品だったりする。とにかく通常の作品とは、何かが決定的に異なるのである。

 以前SNSで、ある映画について「人間が描けていない」と書いたら、見知らぬ人から、それは古臭くて陳腐な価値観だといった意味の揶揄を受けたことがある。では、仮に「人間を描く」ことが古臭くなっているとして、それに代わり得る新しい価値とは何なのだろうか。そして、ここで私が反発心を感じてしまう原因は、この価値観が軽視されている時代の空気にこそあるのではないかと思い至るのである。

 映画界からTVドラマに進出した監督に、木下惠介や増村保造がいる。また、TVドラマ界を席巻した向田邦子や山田太一という脚本家がいる。作品を見ると分かるように、彼らは紛れもなく、それぞれのアプローチによって「人間を描く」という目的を意識し、そのために研鑽を積み精進していたことは確かである。少なくともこのとき、この言葉は陳腐なものとしてとらえられてはいなかったはずだ。そして鶴橋康夫監督は、やはりその約束事のなかにいる作家だと感じるのである。彼らの作品を目の前にして、思わず姿勢を正してしまうというのは、まさに人間を描こうとする信念に圧倒されるからである。そして、その描写の深さや鋭さに、頭の先から足先まで痺れさせられた経験のある者なら、「人間を描く」という言葉が何を意味するのかということが理解できるはずだ。

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 鶴橋康夫は長年の間、TV界で質の高い社会派ドラマを手がけ、数々の賞を獲得してきたことで 「芸術祭男」の異名をとる監督だ。彼の作風を端的に表現するなら、人間の欲望や情念を赤裸々に映し出し、心理の奥の奥まで踏み込んで、その常軌を逸する行動の理由を見る者に納得させ、深く共感させてしまうというものである。

 例えば、同性愛の果てにカニバリズムまで到達してしまう『魔性』(84)や、援助交際と報道機関の闇を扱った『砦なき者』(04)、不倫と殺人を描いた映画デビュー作『愛の流刑地』(07)など多くの作品で、ワイドショーのネタになったり、週刊誌で面白おかしく取り上げられるような性質の事件を、モチーフとして扱っている。それらニュースや記事を見て、常識的な人々は「異常だ」とか、「こうはなりたくない」などと言う。鶴橋ドラマは、そのような異常と正常の間の壁に風穴を開け、私たちを「あちら側」へ連れていってしまう。そこに、ドラマを見ることの、ひとつの本質的な楽しみや充実感があるのだ。

 本作『後妻業の女』も、何人もの高齢男性に近づき、あらゆる方法で次々に遺産を奪っていくという異常な行為を描いた作品だ。大竹しのぶ演じる、プロとしての「後妻業」を営む女と、豊川悦司演じる、彼女を資産家の高齢者に斡旋することによって分け前をせしめる結婚相談所の経営者が、大阪を舞台に欲望の限りを尽くしていく。

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 このあさましく過激な人間模様や犯罪劇は、原作小説の雰囲気を改変し、コメディータッチで描かれる。これが『ゲット・ショーティー』や『ジャッキー・ブラウン』など、エルモア・レナード原作映画のような、日本映画離れした洒脱な印象を与える。詐欺行為をしながらたくましく生き抜く大竹しのぶは、和製ジャッキー・ブラウンを連想させ、豊川悦司はこれらの映画のジョン・トラボルタやサミュエル・L・ジャクソンが演じたような、ヤクザな伊達男である。

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