高橋一生演じる政次の死が意味するものーー『おんな城主 直虎』が描く喪失と再生

 33話での高橋一生演じる家老・小野但馬守政次の死、34話での直虎(柴咲コウ)が治めていた気賀の悲劇と、これでもかと言うほどヘビーな内容が続いた『おんな城主 直虎』だが、続く前回放送の35話「蘇りし者たち」は、つかの間の休息の回ともいえる回だった。傷を負った人々が前を向くための、多くの救いがあった。そして、これはいち政次ファンの完全なる深読みと言われればその通りなのであるが、「亡き政次の蘇りと救い」の回だったとも言える。

 冒頭、直虎と龍潭寺の僧たちが気賀に向かい、その惨状を前に「生きておるものはおらんのか」と叫ぶ場面は既視感があった。12話「おんな城主直虎誕生」での直親(三浦春馬)の死の場面である。直親が今川に謀反の疑いがあると呼び出され、申し開きの場も与えられずその道中で討ち死にしたという一報を受けた南渓(小林薫)をはじめとする龍潭寺の僧たちが、直親とその主従たちの亡骸を目の当たりにし嘆き悲しむ姿が、35話の気賀の惨状と重なった。

 12話は、それ以前の、父親・直盛(杉本哲太)の死をはじめ、直親だけでなく直虎の曽祖父・直平(前田吟)らそれまで井伊を動かしていた家臣たちも死に、直虎が城主となる、登場人物が一新される1つの区切りの回だったと言える。この35話もまた、これまで直虎が政次と築いてきた今川の支配下にある井伊家、気賀を失い、また蘇るための区切りの回だったと言えるだろう。こうして見ると、『おんな城主直虎』というドラマは、全てを失い、また築くという「喪失と再生」の繰り返しの物語だ。だが12話と違うのは、そこに瀕死の状態の龍雲丸(柳楽優弥)がいたということである。

 このドラマにおける、2つの大きな転換期はそれぞれ、直虎が幼なじみである直親、政次の死をどう乗り越えるかという課題と共にあった。大きな喪失の後、主人公はどう前を向くのか。主人公が歩みだす道は、視聴者の人生のヒントにもなる。それはあらゆる優れたテレビドラマにおいて共通するテーマだ。

 直虎の場合、両方とも最初どん底まで落ち、それから前を向き、人々を束ねはじめるという意味では共通している。だが、直親対直虎、政次対直虎間には、共にいた歳月と感情だけではない、はっきりとした違いがある。35話において、政次と直親について言及できる点は「蘇り」と「経」である。

 「蘇り」とは、35話の副題にもなっている。政次は、井伊谷の人々による囲碁と、一種の「ものまね大会」によってコミカルに蘇り、その死を切なくも明るく悼まれる。直親の場合も、20話「第三の女」における「すけこまし事件」で、それまでの笑顔が爽やかな悲劇の青年像を見事に崩し、「二枚舌の直親」という視点からその笑顔が再び蘇るという、ある種の時間を置いた「蘇り」が話題を呼んだ。「死する直親、生ける二人を結ばせる、か」と当時の政次が、距離が縮まった直親の妻・しの(貫地谷しほり)と直虎を見て呟いていたが、彼もまたその死後、孤独に憎まれ役を演じていた生前とは打って変わって、井伊谷の人々に愛され、彼らの笑顔の元となっている。

 また、直虎が経を上げる場面において、直親と政次の対比は印象的である。

 直親の場合、11話で死を覚悟した直親が次郎(後の直虎)に「経をうたってくれぬか」と問いかけるが、次郎は「あれは死者を悼むものだから」と断る。その後、直親の死を受け、経を上げ彼の死を悼む。

 一方、政次の場合、死んだ政次のためではなく、政次の死に関わった側の人物・鈴木重時(菅原大吉)を悼むために経を上げる。そして、その「妙な経」を聴いた、生死の境を彷徨っていた龍雲丸が、死の淵から生還する。政次のための経ではなく、政次の死の原因となった側の人のための経を上げ、それがさらには政次にとっては恋敵とまではいかないがそれに近い存在だったといえる龍雲丸を蘇らせる。1つの死を悼む行為が、複数の人への救いへと繋がっていく。その大元に政次の死があるということは、井伊のために自分だけが犠牲になることを選んだ政次らしいといえば政次らしい優しさではないかと思う。

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