宮台真司の『A GHOST STORY』評(前編):『アンチクライスト』に繋がる<森>の映画

宮台真司『ア・ゴースト・ストーリー』評前編

物語よりも世界観をモチーフとした映画群

 『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』は良い作品です。極めて低予算なのに1年以上前から全米で話題が沸騰していたのが理由で日本でも11月からの公開が決まり、見られるようになりました。素晴らしい作品なのに、日本では半分以上の観客が分からなかったという感想を抱いて帰ると聞きます。残念すぎるので、作品をちゃんと感じて貰えるための準備をします。

 今世紀に入って見られるようになった良作の多くに共通するのは、ストーリーより、モチーフが醸し出す世界観cosmologyにポイントがあることです。物語を追うと起承転結が見えづらく、どこでカタルシスを得られるのか判らなくなりがちです。ちなみに世界観とは「<世界>(あらゆる全体)はそもそもこうなっている」という存在論的ontologicalな理解です(暫く<世界>を世界と記す)。

 世界観は寓意allegoryとしてしか示せません。ベンヤミンが定式化したように象徴symbolは規定可能ですが、寓意allegoryは規定不能です。世界観が全体性に関わるからです。ハイデガーによれば全ての存在は世界の中にあります。でも世界はあらゆる全体だから世界の中にはない。世界の中にないから世界を指示できない。その意味で世界は存在しない(マルクス・ガブリエル)。

 象徴とは記号と(見えない)対象の結び付き(symbolon、ギリシャ語で割符)。見えなくても割符の相手方は決まっている(規定可能)。ところが世界はあらゆる全体なので指示できません(規定不能)。寓意は「砕け散った瓦礫の中の一瞬の星座」(ベンヤミン)として示される他ありません。でも一瞬後には見えたと思った星座が見えなくなる…。記号でのパラフレーズ不能性を指し示す物言いです。

 象徴は世界の中にある存在を指示します。寓意は世界(あらゆる全体)を指示します。でも世界は世界の中にないので存在しない。存在しないものを指示できません。その意味で世界は存在しない形で存在します。だから寓意も、指示しない形で指示します。物語の享受が、世界の中の存在を追う営みなのに対し、寓意の享受は、存在しない形で存在する世界がふと訪れる奇蹟の瞬間です。

 ハイデガーよりも少し年長で、グノーシズム研究から東洋研究にシフトし、エゾテリズム(秘教)研究者として名を成したルネ・ゲノンは、自らのアラビア名を「一者の僕」としたように、存在しない形で存在する世界(あらゆる全体)の特徴を「一者性」と呼びました。これはただ一つしかないというよりむしろ「数えられない一つ」という意味です。固有名の単一性(スピノザ等)にも関連します。

 別言すると、存在には輪郭がありますが、世界には輪郭がないので、世界は存在しません。象徴の対象は輪郭があって規定可能ですが、寓意の対象は輪郭がないから規定不能です。でも、象徴の営みが規定可能なのは、文脈が規定可能だからで、文脈が規定可能なのは、それを規定可能にする文脈があるから…。こうして遡れば必ず文脈の全体性という規定不能性に突き当たります。

 だから、規定可能だと思い込んで言葉の営みをする僕らも、少し反省すれば規定可能性が怪しくなります。例えば僕らは、言葉の用法(指示対象を含めて)が「皆」と同じだとの前提で言葉を使いますが、言葉の用法が同じであるか否かは確かめられません(クリプキ)。同様、僕らは目の前の相手が人間だとの前提で遣り取りしますが、外見に拘わらず相手が人間か否かを確かめられません。

 そもそも自分は人間なのか。人間という言葉が何を指すのか。言葉の枠内で少し厳密に思考するだけで、自分の輪郭も人間の輪郭もぼやけます。コミュニケーション可能なものの全体を<社会>と呼び、あらゆる全体である<世界>と区別すると、<社会>は<世界>に絶えず侵入され脅かされています。少し反省するだけで「<社会>は思っていたものと違うのでは…」との感覚に苛まれてしまう。

 でも<世界>は規定不能=指示不能だから、何がどう侵入して<社会>が脅かされているのか言えない。だから僕らは日々もどかしく感じます。でも例えば、いずれ訪れるのが確実な、宇宙の熱力学的死(終焉)について友と語り合えば、友も自分も「何か同じものに同じように侵入されて脅かされている」と思えて一瞬シンクロできたりする。ほどなく日常が戻って「その瞬間」を忘れますが。

 映画を含めたアートの目的は、19世紀の初期ロマン派によると「治らない傷」をつけること。娯楽=リ・クリエーションが、入浴してサッパリして仕事に戻るみたいに<社会>に戻らせるものだとすれば、アートは、本当はいつも<社会>を脅かしている<世界>を、むりやり寓意的に体験させることで、以前と同じようには<社会>を生きられなくさせます。謂わば「その瞬間」を刻み込むのです。

 そうして傷を刻まれた存在=<足萎えのオイディプス>として<社会>を生きることを強いる映画が、二十年程前から目立つようになりました。だから僕は2000年に『サイファ・覚醒せよ』を著した後、それらを扱った映画評を連載し始めたのでした。連載は「オン・ザ・ブリッジ」と題され、副題は「<社会>から<世界>へ」でした。それが2冊の映画本になり、ここでの連載にも繋がりました。

 ここでの連載を纏めた3冊目を1年前に上梓してから映画評を中断しました。この十年、<社会>から<世界>へをモチーフとした作品の多くが全体性を「森」(実在する森に限らない)に託すようになってきましたが、その理由を、1990年代に始まった新しい人類学とそれを出発点とする思想界隈全体の「存在論的転回」や背後にある後期ハイデガー再解釈に「探る」のに時間をかけたかったのです。

 なぜ「探る」のか。技術論的な話をします。2時間の映画に含まれる情報量は限られます。波瀾万丈的カタルシス作品と違い、僕らが普段見ようとしない「<世界>はそもそもそうなっている」という存在論ontologyを、一瞬の訪れとして星座に組み上げる寓意作品は、僕らが<世界>を生きることで蓄積させてしまう「膨大な何か」を触発する形で、映画体験の情報量を膨大に膨らませています。

 僅かな情報量しか含まない映画「作品」が膨大な情報量を含む「体験」を可能にする機制を、ソシュールならぬパースの再興を企てたジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』(原著1993)が詳しく解説するので再説しませんが、映画「体験」を実際にスクリーン上に見えるものに限りたがる「蓮實重彦氏のエピゴーネン」への学術的反措定の基礎を与えます。でも、今やそれはどうでもよろしい。

 3冊目の映画本『正義から享楽へ』に記したように僕は映画自体にさして関心がないので、「今やどうでもいい」と言いましたが、代わりに僕が強い関心を寄せるのは、僕らが<世界>を生きることで自動的に蓄積する「膨大な何か」です。それが今どんな形を取りつつあるか、その理由はどこにあるか、どんな機制が何を触発するか、映画がその機制をどう利用するか、に興味があるのです。

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