井樫彩が絶えず描く「不自由」と「自由」のせめぎ合い 『21世紀の女の子』の一篇『君のシーツ』に寄せて

井樫彩が絶えず描く「不自由」と「自由」

 澄み渡る青空に向かって、一機のパラグライダーが舞い上がる。映画『真っ赤な星』の開巻直後の光景である。「不自由」な地平から、「自由」が垣間見える空へと、あまり自由のきかない格好で向かうのだ。自由と不自由のせめぎ合いを表象するこのファーストショットを見て、本作を手がけた井樫彩監督は、やはりただならぬ手腕の持ち主であると確信した。

 その彼女が新たに手がけた作品が、スクリーンに活写される機会を得た。山戸結希監督の企画に呼応した女性監督らによる、15本の短編作品から成るオムニバス映画『21世紀の女の子』内の一篇『君のシーツ』である。井樫監督の作品がおおやけの場に姿を現すのは、これが3作目であり、いずれもの作品で主体となっているのは女の子(女性)だ。女性監督が、女の子を主体とした映画を撮っているーーこの点に着目するだけでは、彼女が『21世紀の女の子』の監督のひとりに名を連ねている必然的な理由としては心もとないだろう。その必然性こそを、探ってみたいのだ。

 井樫監督の作品が最初に日の目を見たのは、専門学校の卒業制作としてつくられた45分の中編『溶ける』である。本作は国内の映画祭で称賛されたのち、カンヌ映画祭学生部門にもノミネートされた、女の子のささやかな変化を捉えた作品だ。女子高生・真子(道田里羽)は、田舎暮らしやさまざまな人間関係、彼女を取り囲むそのすべてにうんざりしている。そんな彼女の現実からの「逃避」の手段が、近所の川に制服を身に着けたまま飛び込むことなのである。「不自由(さ)」から、いくばくかの「自由(さ)」を手に入れられる場であるこの川とは、彼女にとってのアジールだ。しかし、川はあくまで川であり、身近でありふれた存在でしかないように思える。でありながら、東京からやってきた従兄(ウトユウマ)が、川に飛び込んだ真子の身を案じ、橋の上から手を伸ばすのだが届きはしない。やはり、そう誰もが簡単には侵すことのできない場所なのである。

 この作品は、女子高生・真子の一挙一動を丹念に、そして執拗に追いかけるように捉えている。カメラが彼女を追うことで生まれる臨場感は、彼女と観客である私たちとの同一化へと導く。逃避場所を求める少女の物語は、この語り口も含めて、非常に私小説的なものであった。

 『溶ける』に続く、初長編作にして正式な劇場デビュー作となった『真っ赤な星』は、ふたりの女の子の関係性を見つめた作品だ。片田舎に住む中学生の陽(小松未来)は、怪我で入院していたときにお世話になった看護師の弥生(桜井ユキ)と偶然再会する。優しかった弥生に陽は特別な感情を抱いているが、弥生にかつての面影はなく、悲しい過去を抱える彼女は、いまは男たちに身体を売って生計を立てているのだ。

(c)「真っ赤な星」製作委員会

 孤独なふたりの女性にフォーカスした本作も、前作と同じように「逃避」という言葉がしばしば脳裏をよぎる。劇中にはそれらを象徴するものを、いくつも見出すことができるのだ。その最たるものが、ふたりが生活をすることになる部屋であり、本文の冒頭で触れたパラグライダーもそのひとつである。いずれもが「逃避」のための、一時的な「自由」を獲得できる場であり、手段であるが、やがてパラグライダーは「不自由」な地平へと降り立たねばならない。部屋もまた同じく、いつまでも外界を遮断するアジールとしては機能しないのだ。

 『溶ける』が中編映画であったのに対し、本作は101分あり、少しばかり長く感じてしまう。しかし、感触が異なるのは上映尺に対してだけではない。前作はひとりの少女の行動と言動、変化を追いかけた作品であったが、本作は少女と女性の関係性、そして彼女たち被写体とカメラ(監督自身のまなざし)の関係性を、セリフの積み重ねではなく、その距離感や互いに向け合う視線を収めた映像の積み重ねによって示している。この関係性を見い出していくには、間違いなく必要な時間なのだ。この『真っ赤な星』には、『21世紀の女の子』に共通テーマとして掲げられた“自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること”、というものがすでに見受けられるようにも思える。だがここだけを結びつけてしまうのは、短絡的で性急すぎるというものだろう。

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