『響け!ユーフォニアム』が守る古典的な映画らしさと、ドラマツルギーをあえて外す挑戦的姿勢

松江哲明の『響け!ユーフォニアム』評

 『響け!ユーフォニアム』というシリーズについて全く知らなかったのですが、昨年『リズと青い鳥』を観に行きました。きっかけは京都アニメーションの『聲の形』を観た時に、音の使い方や音楽の入れ方がすごく丁寧だなと感じたからです。”アニメーションなのに”というのは偏見の感じられる、古くさい言い方だと思いますが、古典的な日本映画がやっていたような演出を、現代のアニメーションがやっていることに驚き、京都アニメーション製作というだけで『リズと青い鳥』には期待を込めて観に行きました。そこでも、学校の中だけで物語が進んでいくという、実に大胆な設定をしていて「映画」であることを意識して作っているな、と思いました(参考:松江哲明の『リズと青い鳥』評)。

 前提知識は『リズと青い鳥』だけで、テレビシリーズは未見の状態で『劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』を観たのですが、私には物語もテーマも伝わりましたし、いい青春映画を観たなぁ、という気持ちになれました。もちろんテレビシリーズを見ている人たちにはサービスに映るようなカットや、ファン心理をくすぐる映画にはなっているのだとは思いますが、そこだけに閉じた作品ではありません。作品を通して描こうとしているものや、作り手が守ろうとしているものが明確だからです。

 今から言うことは、もしかすると批判に聞こえるかもしれませんが、私は本作の特徴だと思っています。この映画の世界観は、とても箱庭的で全てが肯定される世界なんです。まず映画の中で仲間を否定する人が一人もいません。一番厳しそうな滝先生ですら、放任主義で、最初に「自主性に任せる。なぜならそれが一番効率がいい」と断言します。先生と部員という関係では、関われば関わるほど優しさや厳しさを見せなければならない場合があります。その先の成長を期待するからです。一方、他者と関わらず結果だけで判断することは、とても残酷なことです。ダメだった人はそれまでですから。滝先生は部員たちと関わらないので「これができてない」と具体的に指摘するシーンがありません。それぞれが自主的に練習して、うまく演奏ができるかできないかがすべてになっています。一方的に押し付けるのではなく、個々が気付くのを待つという姿勢はとても現代的だと思いました。

 一般的な映画の場合、ゴールに向かう目標だったり、主人公に対するライバルを用意します。なぜなら対立を描き、キャラクターがぶつかり合ったところにドラマが生まれるからです。たとえば、「この人はこれを目指して今後伸びていくんだな」と、それぞれの目標の違いを示唆することで結末が見えたり、演奏シーンで、主人公ができない部分をライバルができていたりすると、能力の差が描けます。そうやって映画というのはドラマを作っていきます。これは映画学校で誰でも教わるような基本中の基本なのですが、それがこの映画にはありません。どの登場人物にもわかりやすい形のライバルがおらず、戦いもないんです。

 私が驚いたのは、ライバルの高校の存在を匂わせておきながら、ライバルの描写を全くしない点です。普通は、ライバルの学校とバトルがあって、相手校が先に演奏してその後に演奏するとか、自分たちが演奏をミスして相手がクリアするなどの描写を入れますが、この映画にはそれがない。「とにかく自分たちが全力を出し切れれば、それで良い」という、実写ならあり得ないような世界観なのです。正直、この物語を生身の人間が演じた場合、極めて難しかったと思います。本作でそれぞれのキャラクターが戦っているのは、「誰か」ではなく、「自分自身」なのですから。

 そこに気づかされたのは、恋愛が始まるかと思いきや、「今はそんな時間じゃない」と拒否する場面です。高校生の男女の恋愛という、私の世代からすると勉強よりも部活よりもドラマチックになりそうな展開をあっさり捨ててしまうのです。そんなこと言いつつも恋愛をせずにいられないのがこの年頃だと私は記憶しているのですが、本作のゴールはそこではないのです。では、なぜわざわざその「断る」描写を入れるのか。作り手が意図的にそれをやっていて、ドラマツルギーをあえて外しているという宣言だと思います。「そこを観る映画ではないです」と観客に訴えているように、私は思いました。

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