『ジョーカー』は“ヒーロー映画ブーム”を終焉に導くトリガーに? 批判も賞賛もできる“二面性”

批判も賞賛もできる『ジョーカー』の二面性

 ヒーローや悪役が登場するアメリカン・コミック原作の大作映画が次々にヒットを飛ばしているなか、それらとは全く異質なタイプの、しかも圧倒的な映画が生み出された。アメコミを代表する人気ヒーローであるバットマンの宿敵が誕生するまでの過程を描いた、問題作『ジョーカー』である。

 本作が映し出していくのは、ジョーカーになっていく不幸な男アーサーの体験であり、彼の脳内の物語である。観客は、本作の物語と演出によって、その道程を彼とともに歩み、そこに生まれる狂気をも追体験することになる。ときにそれは、一部の観客が映画に影響を受け、凶行を犯す危険性を意識的に助長すらしているようにも感じてしまう。なぜなら本作は、ジョーカーというカリスマに感化され扇動される人々を描いているからである。

 ここでは、その圧倒的内容からヴェネチア国際映画祭の最高賞である金獅子賞まで獲得してしまった『ジョーカー』の内容を紐解きながら、衝撃の中身と影響について考察していきたい。

 本作が多くの点で表現をほとんどそのままとり入れている映画がある。ニューヨークを舞台にロバート・デ・ニーロが主演した、マーティン・スコセッシ監督の一連の作品群、『タクシードライバー』(1976年)、『レイジング・ブル』(1980年)、『キング・オブ・コメディ』(1983年)などである。

 『バットマン』シリーズの舞台となるゴッサムシティは、ティム・バートン監督による『バットマン』(1989年)では、ゴシック風の要素を強調したニューヨークの風景として表現されていた。また、クリストファー・ノーラン監督のダークナイト3部作のなかでジョーカーが活躍する『ダークナイト』では、シカゴの風景が映し出される。そして本作『ジョーカー』は、マーティン・スコセッシが当時切り取った、ニューヨークの雰囲気を、ブラッシュアップするかたちで再現しようとする。

 だが、本作のイメージはそれだけではない。それ以前にニューヨークの街には、未曽有の好景気に沸いた1920年代の狂騒と、その終わりに起こった恐慌という、ダブルイメージが刻印されている。ニューヨークをある角度から克明にとらえようとすれば、それらは自然に染み出してくる。それを意識的にやっていることが分かるのは、劇中に喜劇王チャップリンの映画『モダン・タイムス』(1936年)が登場する部分である。この作品は不景気を描いた、同じくチャップリンの『街の灯』(1931年)以後、苦境に立たされた労働者が、文字通り社会の歯車として、人間扱いされないことによって狂気を帯びていく物語だった。

 ここでのチャップリンの不謹慎とすらいえる社会風刺は、本作の監督トッド・フィリップスの、現代社会の要素をとり入れる過激な笑いに通じるところがある。本作『ジョーカー』は、ふたたび深刻化する現代の格差社会と共通点を見せる、『モダン・タイムス』のやり直しであるといえよう。そしてスコセッシの撮ったニューヨークの風景のおそろしさには、このような源流が存在するのだということをも示唆しているのだ。

 都会の片隅に住む、社会にうまく適合できない一人の人間に密着しながら、狂気に陥っていく様をドキュメンタリー風に演出していく、リアリティを追求したスコセッシ作品は、60年代からの体制への反骨精神を描いたアメリカン・ニューシネマを、より現実に結びつけるものとして、当時の映画界に衝撃を与えた。本作はその異端的な不気味さや、きらめきのようなものまでも甦らせようとしていく。

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